’03.1〜12
「生きる」という題名の映画がありました。黒澤明監督、志村喬主演の映画です。1952年の作品ですがテレビでも上映されたことがあるので、ご覧になった方も多いと思います。
「命みじかし、恋せや少女 朱き唇 褪せぬ間に ・・・」と歌いながら、癌と告知されてから死ぬまでの生きがいとして、また生きる証として役所の一課長が、奔走して作った公園のブランコに一人乗って、うれしそうに歌うシーンは忘れられません。
この映画の「生きる」は、生きがい、生きることの意味を言っているようで、ただ無為に生きてることを戒めているようでもあります。
これから書こうとすることは、この生きがいというような大それたことではなく、生きる、生きているそのこと自体を考えてみようという戯言です。

生きることの意味を問題にするのは自分自身であって、一般に他人にとってその人がどう生きようとあまり関心がないように思います。しかし、この世の中で生きていることそのものが、意味があるという人がいるものです。
親、配偶者、子供、この人たちは私にとって、ただ生きてくれているというだけで意味をもつ人間のように思えます。
生きるとはどういうことだろうか、折に触れ考えることではありますが、いまだ私には解が出ません。たぶん今に生きているか、過去に生きているか、それとも将来に生きているかによって、その感じ方なり考え方は変わってくるからでしょうか。

さていつもの独断と偏見を言わしていただくと、先ず「将来に生きる」とは年齢的に30代までではないかと思います。
自分に可能性を期待し、また可能性を見出そうと励み努力する、そこで自分の生きる道を見出せた人は、その後の人生はすばらしいものになるでしょう。
「生きる」をテーマにした話は沢山ありますが、人は生れながらにしてその人の運命は決まっている。ただ努力することによって、その運命を変えることができる、という話が私は好きです。
「将来に生きる」時期は、まさに自分の運命を変える努力の時期ではないかと思います。

「今に生きる」とは、40代から60の初めまでの年齢ではないかと思います。自分の先の見通しもだいたい見えてきて、だけど毎日毎日を必死に生きて行かないと倒れてしまう、生きることの自転車操業みたいな生活の毎日です。
しかしこの時期の生きている毎日は、あまり生きるということを意識しないで、生活しているような気がします。
何か今の生きている毎日に必死になっているので、あまり余計なことは考えなくて済む時期だからでしようか。
そして時々「今に生きる」ことにちょっぴり疑問が生じ、生きることを止めて見たらどういうことになるだろう、とも思う時期ではないでしょうか。しかし所詮自転車操業、倒れると起き上がれないことを知っているので、一生懸命走り続けます。

「過去に生きる」、私はそろそろこの「過去に生きる」年齢に入ってきたように思います。この年齢は、お迎えの来る日をひたすら待って生きるか、過去の栄華を思い起こして、回りの人の迷惑も顧みず、まだまだ一花咲かせてやろうと意気込んでいるか、この生きている一瞬一瞬を大いに楽しもうとして毎日を送っているか、はたまたこれまでの努力で、未だ「今に生きている」生き方をしているか、などさまざまでしょう。
一方で、この時期になって、生きる糧を心配せねばならないほと悲しいことはありません。今の社会は、まともに住んでいると最低の生活は保証されているというものの、「過去に生きる」だけの力は持っていたいものです。

よくよく考えて見ると、生きる力は糧よりも以上に、他人に認められるところから来ているのではないでしょうか。そして、自分を認めてくれるその人が逝ってしまった時ほど、悲しいことはありません。自分にとってかけがえのない人とは、そんな人のことをいうように思います。
その人がどんな生き方をしているか、それは本人の問題で、苦しみ悩みはしているでしょうが、私にとってはただ生きていていてくれることに意味を持つのです。

前に飼っていたサンダーが死んだ時、家族して悲しみ泣きました。そして今、ラムをだき抱え、その温もりを感じたとき、不思議と涙することがあります。
この生きものは、この上なく私を認めてくれているからかな、と思ったりします。