’04.1〜12
知識があるということと理解しているとは全く別の次元の知的活動のようです。知識があるとは記憶していると言っては言いすぎでしょうが、そのような類のものではないでしょうか。
一方理解しているとは、知り尽くしているとでもいいましょうか、形の見えるものから見えないものまで分かっているという状態を言うように思います。
(理解=物事の道理・筋道をのみこみ、さとること。よくわかること。 三省堂広辞林から)
(知識=知ること。認識によって得られた成果。知っている内容。ものしり。 三省堂広辞林から)

私は「あの人を理解している」と言います。しかし、考えてみるとこの表現もおかしなことです。理解とは所詮自分の理解できる範囲のものであって、その人に自分の理解の範囲以外のものがあれば、それはもはや理解できてないものだから、「あの人を理解している」とは言えないことになります。
私は「あの人は理解できない」とも言います。この言い方は、あの人は少し変わっているとか一般的な人でないというような、否定的な言い方のようです。しかし、この言い方は正しい言い方ではないでしょうか。自分でない人を、全て分かるはずもないからです。

永年付き合っている人と、最初に会った時のことを思い起こしてみるときっと面白いでしょう。まずは、お互い腹の探り合いから始まったに違いありません。そして、今その人のことを思うと、何でも分かり合えているような気になっています。
しかし、ある日こんなはずではなかったと、喧嘩別れすることがあります。理解していたはずの人が、突然自分の理解の外のことをするからです。しかしこれもある意味当然のことかも知れません。
人との付き合いは、理解以上のものが必要だと思いますが、このことは今回のテーマではないので置いておく事にします。

最近かれこれ40年前の大学の同窓生達と、ネットで会話することができるようになりました。
高々4年間の付き合いでしかなかった連中と、ネットでの会話がはじまると、まずオフ会ならぬ同窓会をやろうということからはじまり、この2年間に3回の会合がもたれました。
意識してのことではありませんが、卒業してからの間隙を一気に取り戻そうと、そうなるのかもしれません。
そしてお互いに会うと、就職で離れ離れになった40年間の間隙はどこかにすっとんで、卒業した状態での付き合いがまた始まるのです。
しかし考えてみるとおかしなことです。生まれ育って20数年たった学生時代に付き合い、あいつはこうだという自分なりの相手の人物像を描き、それから倍の40年が経てば、いろいろな経歴を経てきているはずです。学生時代に描いた人間像と、随分違った人間になっているはずです。
それが、昔の描いた人間像をもとに付き合いを始めることができるのですから、人間の付き合いとは摩訶不思議なものです。

自戒したいのは、自分の理解にはつくずく限界があるということです。ものの道理や筋道という自然現象ですらそうですから、まして人間という得体の知れない生物においておやと思います。
それを少しでも補うために、本を読みなさいといいます。これとて、若い時はいざしらず、年を取ってくると頑固といわれるように、容易に理解の枠を広げようとしないから困ったものです。
幸いなことに、日常的な人との付き合いは、当り障りのない範囲のことが多く、理解までは必要としない知識の範囲でことがすみます。
しかし、相手の人は自分の理解を超えた経験をもっているという、畏敬の念を持ち続けることが親しき中にも必要なように思えます。