’03.1〜12
散歩をさせていると、往々にして相手の人から「この犬は利口な犬ですね」と言われることがあります。そんな時、だいたいへりくだって「いや、バカ犬ですよ」と返事をすることがあります。昔ながらの日本人の、犬を評して言う時の言葉のようです。
しかし、この「利口な犬」がときどき「馬鹿な犬」になることは、犬を飼っている人ならよく経験することではないでしょうか。

犬を評して言う言葉は色々のようです。先の「利口」「馬鹿」から始まって、「気が荒い」「おとなしい」「落ち着きがない」「ひとみしり」「気性が激しい」、少し専門的になると「稟性がある」「シャイ」「コレクト」「穏和」「友好的」、さらには「種的表現が良好」「相性がある」などと続きます。
どう考えても「利口」とか「馬鹿」は、犬を言い表すにはふさわしくない表現ですが、まだまだ耳にすることが多いように思います。
では巷間言うところの利口な犬とはどんな犬で、馬鹿な犬とはどんな犬のことを言うのでしょう。

先の会話で言われた「利口な犬」は、「よくいうことを聞く犬ですね」と同じ意味のことを言っているようです。
逆に「馬鹿な犬」は、「いやいうことを聞かない犬なんです」と言っているだけで、決して犬の知能を言っている訳ではありません。
知能とは「経験によって、新しい行動のしかたを学習し、新しい事態にうまく適応していく能力」(三省堂「広辞林」)
と定義するならば、利口な犬、馬鹿な犬はいるのでしょうが、それは決して短い時間に表面的な行動だけを見て判断できるものではないでしょう。
いうことを聞かない犬を「馬鹿な犬」と言うのは、犬の表面的な行動を見て人間が勝手に決めたことであって、いうことは分かっていてもなかなか実行しない犬が多いのも事実です。
なぜいうことを実行しないのか、それはいった人、命令した人、飼い主のリーダーとしての権威を十分認めていないからだとしたら、これはその犬を「馬鹿な犬」呼ばわりするのは大いに見当違いなようです。

犬の起源を解説した本には必ず、犬は群れで狩をする動物であると書いてあります。狩は獲物を包囲し、待ち伏せなどの手段で倒しますが、これはその群れのリーダーの指示に従って行われるので、リーダーに対する服従は絶対なものです。さもなければその群れは存続できなくなるからです。
群れを構成する犬にも色々な性格をもっていて、一生部下として過ごす犬(従属的性格)もいれば、隙あらばいつかリーダーになろうと狙っている犬(支配的性格)もいます。この支配的性格の犬は、なかなか飼い主の権威を認めようとしないから、分かっていても命令に従わないことが多いといわれます。いうところの「馬鹿な犬」です。
こんな「馬鹿な犬」も、餌をちらつかせればいうことを聞きます。「利口な犬」への変身です。しかし支配的性格が餌によって性格が変わったとは思えません。
餌をみせていうことを聞くのは、飼い主の権威を認めての「服従」ではなく、いうことを聞く振りをして餌にありつこうとする犬の「取引」だとしたら、なんと利口な犬なんでしょう。これこそは知能的に利口な犬ということができます。

こう見てくると巷間いわれる「利口な犬」「馬鹿な犬」は、犬自身が利口とか馬鹿なのではなくて、飼い主が飼っている犬を「利口な犬」「馬鹿な犬」にしているのではないかと思います。
「利口な犬」になりやすい従属的性格な犬もいるでしょうし、「馬鹿な犬」にしかなれない支配的性格の犬もいるでしょう。
これを見分ける方法として、生後5〜7週間目にテストすると判るという「キャンベルのテスト」なるものがあるようです。
それ以前に、めんめんと改良を重ねて現在に至っている犬種を選ぶことによって、「利口な犬」にする確率を高めることもできます。
そのうえで、犬に飼い主の権威を認めさせる努力をすることで、我が子を「利口な犬」にすることができるように思います。
ときどきいうことを聞かないことがあるうちは、飼い主の権威はまだ認められてないのかもしれません。そして、いつか支配的性格を顕にして、犬がリーダーになるかもしれません。
そんな緊張感を持って毎日我が子と付き合うと、また違った一面を見出せるかもしれないと思っています。

参考資料:「犬を最高の友にする」 渡辺 格著  実業之日本社