’04.1〜12
大相撲名古屋場所中日八日目の横綱朝青龍と琴ノ若の対戦で、朝青龍の「死に体」か琴ノ若の「かばい手」かが問題になりました。
行司軍配は、朝青龍の死体とみて琴ノ若に上げましたが、物言いの結果「死に体になった瞬間と、手をつく瞬間が同時」ということで、同体取り直しとなりました。
死に体になった瞬間を判定した、三保ヶ関審判部長(元大関増位山)の眼力には驚ろくばかりですが、何とも言い訳がましい審判結果と思います。

相撲は日本古来のスポーツで、その仕来り、精神など今日まで綿々と守り継がれてきた、日本の誇る文化です。
その文化の精神、決め事がいとも簡単に、その場の都合によって変えられてしまう危うさを、この取り組みの審判結果から感じ、またこれからの日本大相撲を危惧するものです。

相撲は相撲道の美学があります。礼に始まり礼に終わるのは、日本古来の武道の慣わしです。その精神の延長線上に、恥をかかせない、怪我をさせないようかばってやるなどの、相手をいたわる精神があるはずです。
小さい時から相撲文化を見てきた日本人にとっては、別に相撲道を研究しなくても、相撲から相手をいたわる気持ちを肌で感じ、相撲にスポーツ以外の精神的なものがあることを学んできたように思います。
親方になった元横綱貴乃花の、負けた力士に手を差し伸べたり、土俵を割った力士の腰を抱きかかえたりするしぐさは、なんとなくわざとらしく鼻につきましたが、相撲道を極めようとした力士の、勝負あった時の自然にでてくる仕草と思えば、大変立派だったと思います。

最近の相撲を見ていると、日本の相撲文化がモンゴル相撲の文化に侵食されて、古来の伝統ある相撲文化が変えられて仕舞うのではないかとの危惧さえ抱きます。相撲がそこいらの安っぽい格闘技になってしまうことを恐れます。

新聞の解説記事に次のようなことがでてました。
「モンゴル相撲に死に体という概念はない。欧州勢も高い身体能力で、審判を悩ます粘りを発揮する可能性がある。
その場合、「体が飛んだら、往生際の悪い抵抗はしない」「相手に不必要なケガを負わせない」という角界の美学とぶつかり合うことも予想される。琴ノ若と朝青龍の熱戦は、近来の勝負判定に難題を突きつけた。」

体がひっくり返っても回しを掴んで宙ぶらりんになっている力士と、危ないと思って手をついてかばってやる力士とどっちを勝ちにするか。
相撲の審判部は相撲という伝統文化の精神にのっとって、自信を持って毅然と勝負の判定をして欲しいと思ったのは、私ばかりではなかったのではないでしょうか。