’04.1〜12
分かりづらかった政治が、最近よく分かるようになった気がします。政治が分かるような歳になったと言ってしまえばそれまでですが、自分ながらこの歳ではちょっと可哀想な気もします。
多分そうでなくて、政治が表舞台だけで演じられることが多くなったなったからではないかと思います。良く見えるようになった分、最近の国会はなんとも次元の低い議論がやたら目に付くような気もします。
そんな中での小泉首相の北朝鮮再訪問は、ドラマ風にマスコミが取り上げることもあって、国家と国民の関係を考えさせられる出来事でした。

まず北朝鮮のような国が、国際社会で国家として存続していることに不思議を感じます。北朝鮮という国は、国際社会の規則を無視した何でもありの国のようです。
確かに国際社会の規則(国連憲章)を破ったら、どんな罰則があるのか、またそれがどんな形で執行されるのか良く分かりません。世界の警察を自認した米国も、今や自国のことだけで汲々としています。北朝鮮という国は、さしずめ国際社会では言うことを聞かない無法者というところでしょう。
日本人拉致事件も、拉致の目的は別にあったのでしょうが、今では拉致被害者を人質にして金を遣せと脅しているのですから、これが国家として国際社会でお咎めがないのには驚いてしまいます。

政治を分かりやすくしてくれた小泉首相が、人質を何とか取り戻そうと出かけて行った胸中は複雑なものだったことでしょう。
方や大勢の国民が国家のために大統領の命令で、戦争という大儀のもとで死んで行く中、限られた国民のために無法者の国に頭を下げてお願いに行くわけですから、小泉首相としても格好はつけさせてくれと、日朝国交正常化という大儀をつけないとプライドが許せなかったのは当然のことだったと思います。
大儀は別にしても、国民のために国家の首長が、無法者の国にじきじき出向いて行くわけですから、国民にとってはいやがうえにも感心が高まります。
帰国した小泉首相に対するその国民の態度から、一層国家と国民の関係を考えさせられました。

拉致被害者家族の小泉首相に対する発言は、私にとっては真に聞きづらいものでした。聞いていて不愉快になりました。その後「救う会」に対して、一般国民からこの発言に非難の声が上がったのは、私の感情がやはり異常ではなかったようです。
無法者の盗人猛々しい理不尽な親分に、ぐっとこらえて頭を下げて頼んだにも拘わらず、してやったりと鼻をこすってさっさと米国製の最高級車でねぐらにかえる盗人親分に、任侠の気持は露ほど分からなかったようです。

政治を分かりやすくした小泉首相も、説明責任を果たしていないという非難を良く聞きます。したがって、首相自身がどう考えているかがわからないとも言われます。「男はだまってサッポロビール」はもう過去の遺物です。
盗人猛々しい男とは言え、やはり一国の元首ですから礼を欠いてはいけないと思ったのでしょうが、この所は出発前に胸のうちを吐露しておけば、国民の受け方も随分と違ったのではないかと思います。
「表向きは国交正常化という大義名分で行きますが、拉致家族を連れ返すために行ってきます。相手は首相である私でないと拉致家族を返してくれない、さらにはそれ以外の拉致の問題はもう無いと言っている。そんな人に会いに行ってきます、国民の皆さん、どうか会談が上手く行くことを応援してください」な〜んて言えば、日本には無くなったといわれるナショナリズムを、掻きたてることができたのではないでしょうか。

ことは国対国、国家対国家の問題です。国民の代表が国家を代表して相手国に立ち向かっているのです。国民は代表に声援をおくるこそすれ、非難をするのは相手国に塩を送るようなものです。
その国民の怒りは、相手国の盗人の親分に向けるべきではないのでしょうか。それも承知で日本人の奥ゆかしさ、先ず身内を責めることで間接話法をしようというのでしょうか。

どんな利権と票田があったか知りませんが、今までのどの政治家、首相も手をつけなかった北朝鮮問題。どんな贈答品がきても、一切受け取らない潔癖な小泉首相だから、問題として取り組むことができるのでしょう。
パフォーマンスであるにしろ、何も行動しない今までの首相よりはましな首長と、ここはひとつエールを送って、政府の行動と成り行きを注目したいものです。

 蛇足 −日経のコラム「春秋」にこんなことが書かれていましたー
首相の訪朝結果に落胆と不満を表明した拉致被害者の家族会へ、「ねぎらいの言葉がない」「首相批判は不快」などとするメールが大量に届いている。
拉致被害者の帰還を、四半世紀も訴えてきた家族の心情に、思いは至らないのだろうか。権力の不手際には寛大で批判は許さないという、狭量で志の低いメールにすら、被害者家族は反応せざるを得ないのである。