本音と建前
人間社会では本音と建前を上手く使い分けて行くことによって、人と人との付き合いを円滑にすることを経験的に身につけています。しかし、何人か集まった時の会話での後で感じることは、本音と建前の会話はむなしさが残ると言うか、表面的に流れると言うか、後に残るものが少ないように思います。

会話する人と人との関係にもよるでしょうが、会話を楽しいものにするには本音の部分が多くないと、会話自身も弾まないように思います。自分のほんとの気持ち、許されるプライベートなことなどは聞く人にとって自分の経験にないことが多く、それだけ興味をそそられその逆もあって会話が弾むのでしょう。

人前で話すときなぞも、観念的なことはあまり人に感動を与えませんが、実体験を元にした話しは興味がそそられるし、話すほうもあれこれ悩まず本当の気持ちが現れ良い話しが出来るように思います。作家の井上ひさしさんがあるエッセーでこんなことを書いていたように思います。「書きたいこと、話したいことを上手く表わすためには、書きたいこと話したいことをいつも胸にしまって発酵してくるのを待つようにしている。そうしてそのことついて、どうしても書きたい、話したいという気持ちになって表わすと良いものがだせる。」日常の会話は、そんな大げさなものではありませんが、あまり本音と建前ばかりの会話は長続きしないように思います。

ラムの生活を見てても、かなり本音と建前を使い分けているように思えて面白いことがあります。多分、知らない人に対しては本音で行動しているようですが、一緒に生活している家族に対しては本音と建前を使い分けているようです。躾られたことが建前だったら旨くありませんが、躾られたことが本音になってくるとしつけも合格と言うところでしょうか。




ドッグイヤー
ドッグイヤーと言う言葉が盛んに言われ出したのは、’97から’98の頃ではなかったかと思います。インターネットが一般的になり、IT革命が進んで企業を取り巻く色々なスピードが早まったことに用いられました。言うまでもなくワンちゃんの成長は、人間の7倍くらいの速さで進むことから来ているようです。

一方人間社会では寿命がだんだんと延びて、数世代前に比べると1.5倍ぐらい長生きが出来るようになったと言われます。ドッグイヤーに比べヒューマンイヤーはどんどん遅くなってきているようです。老人が中年になり、中年が若者になると若者はどうなるか。この理屈で行くと、若者は小児、幼児になるのではと、新聞のコラムに書いていたのを見たように思います。

確かに若者の幼児化現象と思える出来事が、このところ多く発生しているのを見るに付け、科学、技術の進歩とは裏腹に、人間の心はだんだん幼くなって行っているように思います。ここ数年幼児や小学生が殺される事件を見ても、その加害者が若者であったり成人であっても、理由ややり方が極めて幼いように思います。捕まってみれば成人男子であっても、子供たちの目撃証言が、中学生だったようだと報じられたことなぞは、その時の犯人の立ち居振舞いが中学生のようだったのでしょう。

これからの私達がいつまでも若いのでなく、いつまでも年をとれずに幼いのだということであれば、言葉のあそびではなく真剣に考えねばならないことなのかもしれません。ドッグイヤーといわれるワンちゃんは、確実に成長し確実に年をとっていることを思うと、人間は人間社会がそれだけ難しくなって、年を取りたくない症候群になっているのかも知れません。




地位
動物の群れのボスは、サルにしろゴリラにしろその姿がテレビの動物番組なんかで良く紹介されています。自分の遺伝子を独占的に残して行くと言う本能的なものがあるにしろ、ボスの役割は大変なように見えます。

一番の任務は群れの秩序を乱さないよう、四六時中気の休まる時はないようです。それにもまして、群れを外敵から守ることは、それこそ体を張って行う勤めのようです。従って、体力的にも一番頑強なものがボスになれるし、強い子孫を残すことからも理屈にかなっているのでしょう。

人間界のボスはどうでしょう。官であれ民であれ、組織の長はやはりいろんな意味で大変でしょう。しかし、同じ組織の長でも官の長は自他ともに認められた公の組織のボスなのですから、社会に対する責任は民に比べてやはり重いものだと思います。まして、警察の長となると正に社会組織を外的から守る最大の責任があるわけで、その任務の重さは大変なものだと思います。

いろんな報道がなされて、民間では多少許されそうなことも、責任を取ってその地位を去るのは止むをえぬことなのでしょう。それにしても、報道を見聞きする限りにおいては、その地位の重さをないがしろにした油断としか思えません。

ラムも我が家の組織の一員としてそれなりの役割を果たしているわけで、ボスである主人はその組織をしっかり守ってやる大きな義務があるわけです。しかし、時にラムから大きな顔をされると、しかるべき制裁をしてボスの地位を守らねばならぬので、悪しからず承知してもらいたいと思います。な〜ラム。




会話
会話には声にして言葉を交わす会話と、もうひとつ声に出さない言ってみれば心の会話があるのかなと思いました。多くの方がご覧になったかもしれませんが、NHKの ドキュメントにっぽん”妻”を書く男たち の番組を見ててそんなことを感じられた方が多いのではないでしょうか。

いま、江藤 淳が、亡き妻のことを思い書いた「妻と私」が出されたあと、先立った妻のことを書くことが静かなブームのようです。テレビに出られた男の方が、結びに一応におっしゃっていたことは、今こうやって妻のことを書くことによって、妻と本当の会話が出来ているように思う。なぜ生きているうちに、この会話が出来なかったんだろうという慙愧の思いでした。皆さん60才位の方々でした。

実感することは、丁度これくらいの年齢の男の方は、女性との会話が事のほか下手ではないかと思います。生い立ちも、場合によったら多感な中学、高校時代のクラスが男女別々であったりして、異性との会話の訓練が十分でなかったからかも知れません。

また、家庭生活の大事な時期はサラリーマン戦士として、家庭を顧みず仕事に明け暮れ、妻との会話はもとより、子供の面倒も十分に見てやれなかったのではないでしょうか。いま流行の演歌「孫」も、そんな実態と償いの男の気持ちが受けている理由かもしれません。

ラムと共生していて思うことは、ラムは精一杯の色々な手段を使って、家族に話しかけてくれているに違いありません。言ってみればラムと心の会話をして、今度は家族からラムに分かる精一杯の表現で、ラムに応えてやらねばと思っています。

そう考えると、心の中で妻に対する感謝だとか、思いやりだとか色々なことを思っているいる男たちは、本当の気持ちを言葉にして声にして、妻と会話すべきなのでしょう。多少恥ずかしい言葉でも。勝手に、本当の気持ちは心の会話で分かってほしいと思うのは、所詮男の一方的な会話かも知れません。




想像力
地下鉄日比谷線の脱線事故は、某首相が「運が悪かった」と言われるほど身近な事故でした。多くの犠牲者を出した中でも、前途有能な高校生の死は色々な意味でマスコミに多く取り上げられました。事故の原因は科学的に調査され、脱線防止の考えられる対策が取られているようです。事故が起きた時、また調査の過程で報じられたことは、なぜ事故が予見されなかったか、想像できなかったかと言うことでした。

最近IT関連の株が高騰し話題になっています。米国の株価傾向に連動してか、将来の経済活動の利益の源泉だからそうなのか分かりませんが、株に関心のある方にとっては市場の動きは大変気になる動きのようです。どの銘柄が有望なのか、いろんな要素を勘案して、想像して市場は動くのでしょう。

横綱若乃花が引退しました。ファンの一人だっただけに残念です。小兵で相撲が上手かっただけでなく、人間的にもすばらしいと思いました。横綱昇進の記者会見で「相手の痛みが分かるような人間になりたい」と言ったのが印象に残っています。相手の立場に立って、相手の気持ちが分かる、想像できるということは立派なことだと思います。

こんなことを考えると、科学・技術でも経済でも人間関係でも、想像する力が将来の苦難や問題を解決してくれる力になるのでしょう。専門的なことは、それぞれの分野のプロが能力を磨き、しのぎを削って想像力を働かせ、私達はその成果を日常生活で享受していると言えます。

一方、人間関係は生活して行くうえで極めて一般的なことであり、毎日を快適に過ごすには自分を取り巻く人間そのものに対する想像力を、常日頃から磨いておく必要があります。想像力豊かな人は、それだけ人の痛みや立場が理解でき、相手の人からもきっと尊敬されるでしょう。

米国の入試論文で、「あなたの一生が300頁に亙って書かれているとして、その中の288頁目をっそっくり書きなさい。」という問題があったと、新聞のコラムに出てました。私なんかは現在がその頁に極めて近いので実感を持って書けるでしょうが、これを大学受験の若者に想像して書きなさいというところが、いかにも面白いと思いました。若者の想像は創造に繋がる可能性が大きく、そのことを試しているのでしょう。地下鉄事故の高校生が悔やまれるのも、将来に対する大いなる可能性がそのひとつにあるからだと思います。

ラムと暮らしていると、ラムから色々なメッセージを受け、いろんな事を言っているんだろうなと想像されます。散歩に行けば、足腰の衰えも防止できます。ラムには申し訳ないけど、ラムとの生活は私にとって想像と運動で、ボケ防止に活用させてもらおうと思います。ラムよ、悪しからず頼みます。




ミス(事故)
新聞・テレビで取り上げられない日がないほど、最近事故が多いいように思います。事故の種類も、ロケットの打ち上げ失敗のような事故から、水とアルコールを取り違えたような医療ミスなどその内容も多岐にわたっています。

ものを造る側からは、生産すると同じかそれ以上に出来あがったものが事故を起こさないように、大変な労力をかけていると言うでしょう。出来あがった製品が事故を起こさなくても、使い方を誤って事故を引き起こすことも少なくありません。

こうしてみると事故は、ものそのものの不具合による場合と、ものは具合良くともそれを扱う人間の問題で起きる場合のあることが分かります。事故の原因はそう簡単なものでないようです。しかしマスコミで報道される限りでは、何故こんなミスが起きるのだろうと思うのがとりわけ医療ミスです。点滴の薬を間違えて患者を死に至らしめた、容器が似ていて中身を確認せず水とアルコールを間違え急性アルコール中毒になった、また手術の患者を取り違えて別の患者に施す手術をしたなんぞは、全く信じられない事故と思います。なにも抵抗の出来ない患者に対しての、一方的な事故だけに憤りを感じます。なぜこんな事故が起きるのでしょう。

電車やバスに乗っていて、運転手さんが一人ぶつぶつ言っているのを良く見かけました。「定速進行」、「信号良し」、「右オーライ」。見ていて、こちらが恥ずかしいと思いながらも安心します。実はこの表面上極めて幼稚な(実はたいへん大事な)確認が、最近の医療ミスに見られるような、うっかりミスとも言える事故防止の基本ではないかと思います。

わたし達の日常で無意識にこなしている行動も基本と応用があって、いきなり応用から入っていくと、一見上手く行っているようでもとんでもない結果に終わることがあります。ゴルフなんかは、実感するその最たるものです。中学生や高校生がそんなに早くから大人の真似をしなくても良いとも思います。

仕掛けが複雑、しかもやるべき事が多くなった今の社会だからこそ、おごることなく愚直にやるべき事をやらねばならないと思います。

ワンちゃんも人間社会で共生して行く基本は躾です。躾も体が覚えた、言ってみれば条件反射になってはじめて本物と言えるでしょう。基本的な事は、それほどしっかり叩き込む必要があると思います。




卒業
暦は3月から4月へとバトンタッチ。卒業した人達が、新しい世界へ飛び立つ希望に溢れた時を送っていることでしょう。とりわけ、これから社会人として飛び立って行く人にとっては、「人生設計」、「生活設計」を思い描いて、大きな夢が膨らんでいることでしょう。

私に残された卒業は、程なく迎える会社人としての卒業と、あと一つ大きな卒業を残すのみと考えると、いささか寂しい思いがします。そんなやっかみから書くわけではありませんが、設計通り、計画通りに歩んで行ける人生はほんとに稀ではないでしょうか。

社会人になる前の人生は、家庭・学校という大きな庇護のもと卒業という大きな目的に向かって、比較的分かりやすい道を進むことが出来ます。予め計画され与えられた道程を進んで行けば、だいたい卒業と言うゴールに辿りつくでしょう。

しかし社会に一歩踏み出した時から、自分にふさわしい道を自分で探して進んでいくことになります。その時、自分の「人生設計」を明確に描ける人は幸せです。しかし、思い通りにならないのも人生、内乱があったり外乱があったり、その都度試行錯誤をして軌道修正してみては、目的を見失ったり、その目的すら分からなくなったり、歌の詞ではないですがそれもまた人生なのでしょう。

最近思うことは、人生の目的を持つことよりも、人生を歩んでいる時に人間としてどんな気持ちでいるかということのほうが、もっと大事なように思います。愛する、思いやる、協力する、なぐさめる、助ける・・・私自身が明確な人生の目的を持ち合わせてないだけに、そんな気持ちを大事にして生きて行けば、間違いのない人生の卒業が出来るのではないだろうかと思っています。

ラムのことを考えると、ラムの卒業って何だろう、みんな与えられることしかない人生、いや犬生。そう思うと、家族がラムの犬生を左右しているという大変なことに気づき、新たな気持ちでまたラムと付き合って行こうと思います。




社会
生まれてこの方、そしてこれから生きていく社会を考えてみると、自分がいくつかの社会に身を置いて生きていることが分かります。

学生時代までは「家庭社会」、「地域社会」で成長してきました。社会人になって、結婚して家庭を持つと、夫である男性は主として「会社社会」、「家庭社会」に身を置くことになるでしょう。妻である女性の多くは「家庭社会」、「地域社会」中心に生きていくのではないでしょうか。この時期の「家庭社会」は、学生時代までのそれとは違い、夫や妻が「家庭社会」の主人であり中心の社会だと思います。そして男は「会社社会」に別れを告げる時が来るとと、妻と共に「家庭社会」と「地域社会」で暮らすようになるのが一般的でしょう。

いずれの社会に身を置くにしろ、共通して係っている別の社会があります。それは日本人としての「国社会」と世界を意識した「地球社会」でしょう。そして最近は、私もちょっぴり首を突っ込んでいる「ネット社会」という新しい社会が誕生しました。この三つの別の社会はちょっとおいておくことにして、このところちょっと気になる「家庭社会」と「会社社会」のことについて、思いを致してみました。

今まさに、新生社会人として誕生したばかりの人達が町に溢れています。この方々が身を置く「会社社会」が、今ものすごい勢いで変わっているということです。そのことが、「家庭社会」にも少なからず影響を与えているように思います。

「会社社会」で従来と変わったことは、スピードと生き残りのための戦いでしょう。ある日の夕刊に出ていた、若い経営者を紹介する囲み記事の中だけでも、次のような言葉が散乱していました。「一流企業も三流企業もやろうとすることは一緒。問題はそれを実行できるか否か。そこで、一流と二流以下にわかれる。」「年齢も経験も関係ない。才能のある人に適切なポストを用意し企業成長の速度を上げるのが経営者の務め。」「ついていけなくて自分で身を引く社員はいても、経営者が辞めさせることはない。」「泳げない奴は沈めばいい。」こんな言葉で言われるのが、決して極端でない今の「会社社会}のように思います。ここでは残念ながら、愛だとか思いやりだとか言う言葉は、甘えにしか聞こえません。

一方今の「家庭社会」ほど、ゆっくりとした時の流れと、愛だとか思いやりの心、すさんだ気持ちを癒してくれる言葉が必要とされている時代はないのではないでしょうか。

この二つの社会を毎日往復している人達が、今のこの社会を背負って立っていると思うと、つくずく大変な時期を過ごしているのだなと思います。夫が会社から帰ってきて夕食のほんのひととき、妻が今日の出来事を話していたら、突然夫が「ところで結論はなんだ、早く言え」と言ったとしたら。

ゆったり流れる家庭の時間に、スピードに追われる会社の時間をそのまま引きずって家庭に持ち込む、言わば「家庭社会」と「会社社会」の切り替えができない症候群が蔓延してるとしたら、なんとも悲しい社会現象ではないでしょうか。

ラムはいま「家庭社会」と「地域社会」を満喫しています。いや、満喫しているものと思っています。そしてラムは、時として家庭にいながら「会社社会」から切り替えが出来ないでいる主人に対し、「家庭社会」に頭のスイッチを切り替えてくれる魔法使いのように思えるのです。あまり、このラムの魔法にはお世話にならないようにしたいと思ってはいますが。




理解
ものを理解する、分かると言うことは人間の脳の活動の中でも最も神秘的な活動と思います。理解する、分かる対象の「もの」は、学生時代に苦労した物理や数学の「問題」であったり、課題を解決する「方法」だったり、いろいろな「現象」や「物」そのものだったりします。

数学や理科の「問題」は、解が唯一無二で分かったか分からないか、理解できたかできなかったかは明快です。正解が一つであれば、○の人は理解できているし×の人は理解できてないからです。

たとえば、どうしたら本が早く読めるようになるかという課題に対しての解は、それこそ色々な「方法」があり多分正解は唯一無二とは言えないでしょう。思いつく「方法」の数だけ解があるとすると、その「方法」を理解できたかどうかは少し曖昧になります。まだ違う「方法」があるかもしれないからです。

対象が「物」になってくると、その「物」を本当に理解しているかどうかは、先ほどの「方法」よりももっと曖昧ではないでしょうか。「物」が人間だったりしたら、分かる、理解するということがどんなに曖昧であるか実感することが多いように思います。

こう考えてくると理解しているということは、所詮自分の経験とか知識とかなにか自分固有の物差しに照らし合わせて、自分を納得させているように思います。同じ条件でお付き合いしていても理解の中身は、人によってまちまちだと言ってもあまり間違ってないように思います。

自分のことすら理解できないということは別にして、他の人を理解することは容易なことではありません。家族は自分の物差しで計る機会が他人より圧倒的に多いわけですから、良く理解しているつもりでいますが、これとても自分の「理解の物差し」で計るのですから限界があります。ものを理解する度合いは、物差しの多さと物差しで測る回数言ってみれば情報の多さということになります。愛するとか思いやるとか言う行為は、そのものを理解したから愛するとか思いやる事の他に、そのものを理解するためにもしなければならない行為のように思います。

ラムは生まれてからこの方、私達家族にずっと見守られて生きてきました。良く理解しているつもりです。情報量も十分多いように思います。ただ、残念ながら持っている物差しが果たしてこれで十分か心配です。分かったと思うと努力しなくなりそうなので、いつまでも理解できない「物」だと思って、これからも付き合いたいと考えています。




立場
その人の立場に立って考えるとか立場がないとか言います。立場を単に置かれた環境と考えると、客観的で分かりやすいのですが、もう一歩突っ込んで自分がその環境に置かれたと思って考えるとまた違った感慨が沸いてきます。想像力、理解、思いやりと共通のテーマかも知れません。

感情移入という精神行為がありますが、何気なく行き交う通勤電車の中の全く知らない人から、地域社会で暮らす多少かかわりのある人、会社で苦楽を共にする人、そして親族や家族の人々に、深刻でない状況の中でなら、感情移入してみるのも結構面白いものです。その人の立場に立って考えると言う訓練です。日頃からこの訓練をしていれば、深刻な状況になった時多いに役に立つ事でしょう。

なぜあの人がそんなに苦しむのか分からない、悲しむのか分からないということがあったとしたら、自分の理解の物差しの足らないこと、言いかえれば感情移入しても分からない立場の違いがあるからでしょう。自分の経験した事のない領域の何かが影響を与えているからだと思います。

人間同士の場合、言葉とそれに変わる色々な手段でお互いの立場を説明し理解を求めます。万物の霊長といわれる所以の一つに、この多用なコミュニケーションの多さがあるでしょう。せっかくのコミュニケーションの多さも、中身の情報が理解できなければ何の役にも立ちません。残されるのは、どうしたら中身の情報を理解できるかに掛かっているように思います。物言わぬラムとの共生も、どうやってこの壁を乗り越えるか相互理解のための毎日です。




自分
「物」を見るとき客観的に見るか、主観的に見るかによって見え方が随分違ってくるように思います。客観的に見る限りにおいては、その「物」の認識をみんなで共有できますが、主観的に見ると認識が人によって違う事は日常良く経験する事です。

客観的に見、また主観的に見ると良く見える「物」が、自分のことになると良く見えないとはこれも良く経験する事です。何であの人は自分のことが分からないんだろうと、自分の事は棚に上げておいて、思う事がよくあります。自分のことを分かろうとしても、なかなか分かることは少ないですが、他人を見ていると良く見えると言うのもなんだか皮肉なものです。

新聞のコラムにこんな事が書かれていたのを思い出します。人は自分が二人居ると思っている。悪事を働いている時は、善人の自分が別に居てこれが本当の自分であり、悪いことをしているのは本当の自分ではない、また幸せな時は本当の自分はもっと不幸なはずだと思っている、どうもこんなような趣旨だったように思います。

自分とはだから掴み所のないものだと言っているのかも知れません。自分は所詮こんな「物」だと認識できないほど、好ましい方向にも好ましくない方向にも刻々と変化しているものかもしれません。

自分のことが良く見えないのなら、せめてラムを客観的にも主観的にも良く観察して、快適な生活ができる環境を提供してやりたい。もの言わぬラムと共生していると、色々な場面で分からなかった自分を認識することがあるかもしれません。




デザイン
ホームページを作っていて、私にとっての楽しみと言えばやはり物を作る喜びのように思います。情報提供というボランティア活動からすれば、その目的から反れた個人趣味的なサイトになってしまっていますが。

ページを作って行く過程で、やはり気になるのは見栄えと言うか、自分の伝えたい趣旨が伝わるようなページになっているか、初心者ながら不安です。技術的には極めて初歩の部類ですが、こんなページにしたいとアイデアが浮かぶと、いろいろと本を調べて見ます。やりかたが分かると試してみて、上手く行くとうれしいものです。しかしそれは部分的なもので、ページ全体を見たときやはり見栄えと言うかデザインの方に関心が行きます。しょっちゅういじっていますが、納得するようなものになりません。これはどうも技術の問題でなく、才能やセンスの領域のように思います。

ページを眺めていて、何が納得できないかは自分でも良くわかりません。しかしただ一つ感じることは、見ていて安心感を与えるかどうかは要素の一つに入っているように思います。落ち着き、しっとり、見ていて安心する、そんな感じのするページにしたいなといじっているのが現状です。

WEBデザインの原則に、整列、近接、反復、所在なんかを意識した配置にするよう書かれていますが、この原則は素人ながら部品の整理整頓を言ってるように思えます。そんなことを考えながら、ここもいじり、あそこもいじり行きつくところがありません。

芸術作品とりわけ日本の芸術は、心の安寧をあたえる作品を良しとする傾向があるように思います。生け花を見て、良いと言われる作品は見ていて安心感を与えてくれますし、盆栽も同じような見方が出来ます。癒し系の芸術が心に安寧を与えてくれるのは、個々の「もの」がちゃんと納まるところに納まっているからでしょう。

ラムもわれわれ家庭構成の中で、ちゃんと納まるところに納まって心の安寧を得ているか、ええ、ええちゃんと納まっていますよと言ってくれるかどうか・・・。




お酒
先代の三遊亭金馬師匠の落語「居酒屋」にこんな枕があります。酒、一杯にして人酒を飲み、二杯にして酒酒を飲み、三杯にして酒人を飲む。お酒をたしなむ私は、「酒なくて、何で己が桜かな」なんて、この桜の季節は随分おだをあげる機会が多くありましたが、お酒は飲みようによって気分転換には欠かせないもののようです。しかし、また飲みようによっては酒人を飲むと言われるほど、始末の悪いものはありません。

酒は人を変えると言いますが、いささか理性を司る脳が麻痺して、その人の本性が現れるんだとも言われます。建前を素通りして、本音で話すのにはやはりお酒は大変有効な潤滑油になります。

お酒のこんな効用ばかりでなく、お酒本来の飲み物としての味わいも最近は随分と研究されてきて、美味しいものが出てきました。ここでいうお酒とは、やはり日本酒のことを思って言っています。ひところの舌に纏わりつくようなお酒から、さらっとしたのど越しのいいお酒がもてはやされているようです。日本酒は二日酔いをするからと敬遠される方が結構いますが、最近のものは酔い覚めも良いようです。もっとも美味しいからと言って、量多く頂けば何を呑んでも翌日はつらいのではないでしょうか。

お酒に酔うと、これまた色々な癖が出てきます。笑い上戸と泣き上戸、果ては怒り上戸までありますが、経験的には笑い上戸と怒り上戸は同居しているように思います。お酒を飲んで、何となしに愉快な気分になることもありますし、無性に腹立たしくなることもあり、お酒はそんな人の心をあからさまにしてくれるところが一番の効用ではないでしょうか。

しかし所詮お酒を飲むのは個人の責任、酒のせいで、酒の場だからといって許される時代は昔のこと、今は酒の上の出来事で自己責任を許されるものではありません。ラムには悪いのですが、今日はちょっぴり美味しいワインを頂いたので、お酒についての思いを書いて見ました。呑んだお酒がワインだったのが、ちょっとまずかったです。




教育
考えてみると、人間生まれてから死ぬまで、教わらないで生活している時期と言うのはないように思います。教育と銘打って構えなくても、無意識のうちにいろいろなことを学んでいることに気が付きます。厄介なことは、そのことを意識しているかそうでないかによって、身につく度合いが違うようです。また、意識して学んだ場合のことだけを、「教育を受けた」と言っているようです。

教育の中身も、学問、知識の教育から生活していく上で必要な知識の習得まで千差万別です。一般には学問の習得を教育と言っていますが、生涯学習と言われるように学校で学ぶことばかりが教育ではなく、色々な機会と場所を見つけての教育が必要なように思います。

最近の学生と言われる年齢の者が引き起こす社会的な出来事は、いったい何に起因しているのでしょうか。被害者も、加害者も学生であれば、マスコミで取り上げられる情報は、家族からの発信より学校関係者からの発信の方が、圧倒的に多いと言うのはどういうことなのでしょうか。

人為的な事件、事故が起きた時、またなすべきことが出来なかった時、その原因を先生に教えられる教育のせいにするのは安易な見方だとされています。確かに学校であれ職場であれ、問題の原因をあてがわれる教育のせいにするのは安易な見方かも知れません。
あてがわれる教育は、学ぶ又は習得する方法を教えてくれる、教育のほんの入り口でしかないからです。自ら学ぶことの教育も入れて考えると、やはり社会で不都合と言われるような事をする輩は、自発的に行う自らの教育が出来てないからだと思います。

教育者は、我々が学ぶためのほんの手助けをしてくれる人です。家族は困った時に励ましてくれ、物理的にも精神的にも助けてくれる人達です。そして最後は、生きていくための自らの教育が必要なのではないでしょうか。どうも最近の風潮を見ていると、親にしても子にしても他人のせいにしているように思えてなりません。ましてやそれを学校教育のせいにするのは持っての他と思います。

ラムとの共生は、自ら学ぶことができないだけに、このあたりの兼ね合いが難しいところです。しかし、ワンちゃんの引き起こす問題は所詮人間の責任であると言う教育は、常々怠りなく肝に命じているつもりです。




忘却
忘却とは忘れ去る事なり。忘れ得ずして、忘却を誓う心の悲しさよ。
こんなナレーションで始まる連続ラジオ小説「君の名は」は、不思議と今でも思い出します。かの有名な菊田一夫のすれ違いメロドラマですが、聞いたのは小学生の低学年頃ではなかったかと思います。映画化が1953年頃ですから、随分昔の事でもあり、自分ながらおませだったんだなと感心しています。

突然こんな話しで恐縮ですが、物覚えが悪くなった最近、忘れる事を恐怖に思う一方で忘れる事のありがたさも思うことがあるからです。
適当に忘れる事が、明日への活力にもなり過去の呪縛から解放してくれるありがたい頂きものだと、寂聴さんの説法で聞いたように思います。

しかし覚えている事を一つ一つ思い起こしてみると、忘れたものが無いようにも思えるのもこれまた不思議な事です。結局はみんな覚えているのですが、思い出すと言う努力をしないと思い出せない記憶と、嫌でも思い出す記憶とあるのでしょう。嫌な記憶は、できるだけ後ろの方にしまっておきたいものです。

記憶を忘れさせてくれる妙薬は、時間とチョット大袈裟ですが脳細胞の減少でしょうか。後者は置いておく事にして、時間が忘れたいことを忘れさせてくれる一番の薬とは良く聞く言葉です。

だんだん鮮明な記憶が、時間の経過と共に薄れて行く。楽しかった記憶は薄れ方が早いですが、つらい事は遅いように思います。それでも忘れている時間の方が、だんだん多くなっていく。嫌なことがあったときは、その記憶を埋もれさせるような新しい記憶を重ねて行けばよいのでしょうが、嫌な記憶に執着するので積み重ねる記憶が少ないのかもしれません。気分転換、言うは易しいですがなかなか自分の気持ちを自由にコントロールできない私のような凡人は、難しい事のように思います。

ラムも記憶は良い方ですが、ものごとの関係、理解力が無いがために今と過去のつながりがつかず、一見忘れたしまったかのように見えます。このことを人間が理解してやれば、結構おもしろい付き合いが出来そうだと改めて感じています。




父親
日経のコラム春秋にこんな事が書かれていました。「・・・豊かでも父性の影が希薄なこの時代を生きる子供たちは、社会への手がかりを欠いて無重量の空間を歩む感覚を強いられているのだろうか。・・・・
あらがいがたい母親の情愛に比べれば、息子にとって父親は懐かしくも疎ましい存在である。・・・・
多かれ少なかれ、世間の息子たちも同じ感覚を父親に抱きながら、その背中から何かを受け止めて成長する。無意識のうちにその生き方の「壁」として立ちはだかる父親の後ろ姿がいまほとんど見えないのはなぜだろう。・・・・」

父親の存在感が無いと言われて随分経つように思います。事件を起こした子供の報道を見ても、母親の記事は見ますが父親の姿が見えないのはよく感じます。子供の頃父親を思ったこと、そして父親になって息子を思うことの経験をしてきた今考えると、息子も父親も嫌と言うほどお互いを意識していて、ただその接点がなかなか見出せないと言う事ではないかと思います。

そしてその接点が見いだせた時のことを思い出すと、息子の年齢が父親のことをちょっと距離を置いて客観的に見れるようになった頃からのように思います。父親は結構息子を客観的に見ているつもりで、色々なアドバイスをしてやりたいと思っていても、つい高圧的になったり受け手の息子がまだ堅い殻の中にいて聞く耳を持てないでいるうちは、なかなか接点は見つからないのではないでしょうか。その微妙な時期が、15から20才くらいの頃のように思います。

自分のことを思うと反省しきりですが、今にして思うと客観的に物事が見れる立場の父親が、この大事な時期に最大限の注意を払って子供と接触することが何よりも大切なように思います。
その時の態度はそうでなくとも、そのころ聞いた父親の一言が折に触れ心に残っていることがあります。そして、もっと話しを聞いておけば良かったと思う無念さです。そして今また、子供にそう言う思いをさせないようにすればよかったという反省です。




笑い方
哺乳類の中でも笑うことが出来るのは人間だけと言いますが、いや顔の筋肉が発達しているだけで表面的に見えるだけであって、みな同じ感情を持っているんだとも言われます。いずれにしても、心から笑うことは精神的に大変良いことには違いありません。しかし、感情の発達した人間にはこの笑うと言うことにも、感情によって色々な種類の笑いを作ってきました。

心を許した友達同士の会話は別にして、多少裃を着てする会話は笑いの”せりふ”が結構意味を持っていることに気が付きます。いわば会話の潤滑油であったり、もうこんな会話は止めにしてほしいなと言うブレーキであったり、そんなことで色々な種類の笑いが出来たのでしょう。

細かい観察は抜きにして、笑い方となるとあまりその時の笑う感情には関係なく、人それぞれの笑い方があるように思います。そして、聞いていても羨ましいようなすばらしい笑い方をする人が居ます。こんな笑い方のできる人と会話していると、会話も弾むし会話そのものが楽しくなるから不思議です。

私も人と会話をすることの多い仕事を長年やって来ましたが、意識し訓練すると自分の理想に近い笑いができることが分かりました。
どんな笑い方が理想かは、人それぞれがこの笑い方が良いと思うものを目指せば良いと思いますし、その笑い方を聞いてまた自分なりにこの人はこんな人なんだなと思えばよろしいのではないでしょうか。

ラムの笑いはもっぱら体で表現してくれます。ああ今は、こんな笑い方をしているんだなと思うと、色々な笑い方をしてくれます。そして人間とは逆に、小さい頃は結構あいそ笑いをしてくれましたが、大きくなるに連れ本音でしか笑ってくれないように思えてきました。それだけに、ラムとの会話もいいかげんではまずいなと思うこの頃です。




宝島
今でも強烈に残っている、小学校三年生の頃の思い出があります。新しく担任になった女の先生は、なぜかしら生徒の中でも人気のある先生でした。その先生が私達の担任の先生になったのですから、クラスの期待はそれは大きなものでした。
そういえば、今でも生徒内ではあるかもしれませんが、新聞に載る新学期前の先生方の異動記事に一喜一憂したのを覚えています。

小学校の授業は、全科目担任の先生が教えてくれますので先生も大変だった事でしょう。いじめや、喧嘩もありましたが、記憶が薄れたせいか今ほど陰鬱なものではなかったように思います。それでも、授業と生徒の指導で先生の苦労は大変だったと思います。

期待の先生は、やはり期待通りの魅力ある授業でした。そのなかでも、私達を虜にしたのは国語の時間に読んでくれた、冒険小説「宝島」でした。
スティーブンスン作のこの小説は、中学になって英語の教材に使われ、この時はいささか苦痛をもって読んだように思います。しかし、小学校の頃に先生が読んでくれた時は、次に読んでもらうことが待ち遠しいほどわくわくしながら聞きました。

トレローニさんやリブシー先生と宝捜しに出かけるジム少年が、一本足の海賊シルバーと繰り広げる冒険活劇は、娯楽の少ない時代だったからかもしれませんが、胸躍らされた物語でした。

そして大変残念な事に、ジム少年が宝島に辿りつく前にその先生が病気で入院してしまった事でした。なんでも肋骨を何本も切って手術する大病だったようですが、その事の記憶はぼんやりとしてます。その後の続きが気になって、本らしきものを自分で買って読んだはじめでした。

きっかけはどんな事で起きるか分かりませんが、元来本を読むことの苦手な私が、物語を読んでみようと思うきっかけになった忘れられない子供の頃の思い出でした。




相撲
考えてみると相撲の番付制度は、相撲を単なるスポーツとしてみるなら不思議な制度だと思います。単なるスポーツと表現したのは、これも単なる私の偏見でありますが、子供の頃から慣れ親しんだ相撲はスポーツにない神聖さを感じていたからであります。しかし、今の相撲は残念ながらその神聖さをさっぱり感じなくなって、すっかり熱も冷めてしまいました。

プロスポーツで、あなたは強いから横綱、ちょっと弱いから大関と言う制度はあまりないのではないでしょうか。確かに幕内、十両、幕下などのリーグ分けはサッカーなどにもあります。テニスのようにランキング制度もありますが、これとても結果で順位を決めているだけで、順位によってその地位を保証されているわけではありません。

相撲にスポーツ以外の何かを求めるのは、今の世の中の仕組みや考え方からするととうてい無理な望みでしょう。その何かと言うのを探してみると、相撲社会は強烈なプロ集団、横綱(関取)の権威、横綱(関取)の人格、集団の権威と謙虚さと品格などなど日本人が遺伝子の中にもっている(であろう)儒教的な精神を、相撲社会の人達は身をもって表現してくれたように思うからです。関取に対し身の回りを世話する弟子を持つ制度も、関取という地位に対して人間的な尊敬があるからでしょう。
今でも横綱、大関に昇進する審議において、品格だとか成績以外の観点からも審議されていますが、結果を見ると実態が十分伴っているかどうかは疑問です。

子供のころを思うと、お相撲さん(力士とは余り言わなかった)は何かみんな年を取っているように思ったものです。それだけ落ち着いていたし、堂々としていました。その頃の私のごひいきは千代の山でした。
当時は「おらー三太だ」という子供向けラジオ人気番組がありましたが、その三太と共演する「三太と千代の山」なんて言う映画ができるほど子供に人気のあった横綱でした。

果たして子供の頃の相撲社会も、こうやって馬齢を重ねた目で見ると上に書いたような神聖な相撲社会であったか、横綱であったかはわかりません。
ただ、強く思う事はこれが日本人の心を身をもって表わしているモノだという何かが、今の社会でもあってもいいと思います。それが相撲だったらと思う一人です。