最近はやっている歌を聞くと、随分テンポの速い曲が多いように思います。特に若い女性の唄う歌を聞いていると、思いのままの気持ちを軽くて早い曲に乗せ、語っているような歌が人気なようです。
その点演歌や歌謡曲といわれる歌は、テンポが遅くってまどろっこしく感じられます。ちょっとジャンルは違いますが、浪曲はその最たるものかもしれません。

演歌や浪曲を聞きながら何かをしていると、歌詞が頭に入りませんのでつまらない歌のように感じます。ところが、お金をかけて見に行ったり、ラジオやテレビでじっくり歌詞や物語を聞くというと時として涙する事もあります。
語られる歌詞や言葉が乗るメロディーや節回しは、聞く人に対して言葉のかもし出す雰囲気を感じさせる効果を与えているようです。どうも演歌や浪曲は唄われる物語を聞くものであって、メロディーや節回しはそれを盛り立てる効果音と考えた方がいいようです。
日本文化の演歌や浪曲が若者に受けなくなったのも、テンポが遅く主体となる歌詞や物語をじっくり聞くことが無くなったのも原因の一つかも知れません。

本格的な落語を聞いているというと、本題の話に入る前に枕という小話がいくつもつけられます。15分位の落語だったら、5分くらい枕に取られることもあります。
枕で語られる中身は、本題の落ちを理解するための解説だったり、本題の話しを理解するための時代考証だったり、枕だけでも結構面白く聞けます。枕の役割は、本題を引きたて補うためのなくてはならない設定のようです。
これとても本題を理解し楽しむための準備であって決しておろそかにはできませんが、時代が要求するテンポからすればまどろっこしく感じることもあります。

歌や落語もその主体がしっかりしていないと、いくらメロディーや枕が良くても作品そのものはつまらないものになってしまいます。うっかりしているとどっちが主体か訳がわからなくなって、どこかの国の政府のように、取り巻きの人の言うことの方が正論で主体のようになりかねません。
ラムとの共生においても主体はやはり人間であって、ラムに振り回される生活であってはならないと思っています。




店員さん
時々近くのファミリーレストランに出かけることがありますが、どうしても馴染めないことに店員さんのあいさつがあります。「いらっしゃいませ、こんにちは〜」
「いらっしゃいませ」にはどうということはありませんが「こんにちは〜」には何回聞いても馴染めません。馴染めないというよりなれなれしさを感じて、かえって不快感をもよおします。
家内と一緒に聞くことが多いので私がぶつぶつ一人不快感を言うと、家内には親しみがあっていいじゃないかと諭されます。

先日KIOSKで130円の商品を買い、150円払いました。店員はまず品物にシールを貼ってカウンターに放るように置きました。うーん、内心投げなくってもいいじゃないかとむっとしましたが言葉は飲みこみました。
次に30円のお釣を渡してくれるのでカウンターに置いてくれるのかと思ったら、持った手を宙に浮かして待っているので私は手を出しました。出した手に、これも投げるようにお釣の30円を渡すので、とうとう言葉が飲み込めずに 「買ったものやお釣を投げなくったっていいじゃなか」 「・・・すいません」 「お客に失礼だぞ!」 「・・・・・」
相手は若い女の店員さん、悪気ではないでしょうが文句を言った後味の悪いものを感じながら店を出ました。

この二つのケース、はじめのケースは多分接客に関するマニアルがしっかりできていて、そのマニアル通りに客との応対をしているのでしょう。その後の応対の言葉にもそつなく、感情なく、後からのお客にも同じような応対の言葉でした。
一方KIOSKの場合は特別マニアルで教育された様子もなく、個人のセンスにまかせているのでしょう。こういう接客マナーの出来ていない店員を使わなければならない店の経営者は、店のイメージを落とさない最低限の教育として、マニアル通りの接客をさせるのも仕方ないかなと思いました。

お店の店員を希望して仕事をするからには、マニアルに縛られてその範囲でしか言動が許されないのは、何とも残念でつまらないものではないでしょうか。せっかくの知らない人とのコミュニケーションという、接客の面白さを味わえないのですから。
機械相手の決められたことを仕上げるには、ミスを無くすためにマニアルは欠かせません。しかし、心と感情のある変幻自在な人間を相手にする仕事の場合は、自分を磨くいいチャンスでもあり、マニアルに縛られないで真心を尽くして応対してもらいたいものです。
尽くした心は、また来てくれるというように何倍にもなってお客様から返ってくるのですから、この喜びを体感するのが店員の仕事の本当の醍醐味ではないでしょうか。ラムと付き合ってても、そう思うくらいですから。




聞き上手
何人かで集まって世間話をしながらお茶を飲んだり、お酒を飲んだりした後、どうもあの人とは馬が合うとか合わないとか思うことがあります。馬が合う人とか合わない人の理由はいろいろありますが、お互いに会話をする際の話したり聞いたりする技術にも、大きなかかわりがあるように思います。
話し上手、聞き上手という言葉がありますが、どうも一方だけが上手ということではないようです。話し上手な人は聞き上手でもあるように思います。

同じ仲間内で話をしていても、こちらの方が疲れてくることがあります。相手の人も同じように疲れたかどうかは、未だ確認したことが無いので分かりません。
疲れる思いをした時の原因を考えてみると、だいたい一方的に話しを聞かされていることが多いように思います。話しの中身も、自慢話であったり説教めいた話しが中心です。あまりこんな方とは、自主的にまたテーブルを囲んで話してみたいとは思いません。

気のおけない者どうしの会話は、話したり聞いたり双方向の会話が多く話しも弾みます。気のおけない者同士ということで、既に選別が行われていますから、話すことや聞くことの技術的な気配りはもはや必要ありません。
話しをするということはある種の情報発信ですから、発信する方は特に得るものはありません。一方聞く方は発信される情報を聞くわけですから、役立つ情報を取捨選択することができます。そう考えると聞き手の方が楽しいように思われますが、新鮮で役立つ情報がないく一方的に話されると、聞いてる方は疲れてしまいます。

中には聞くことは好きだが、話すことは苦手という人もいます。この人とても、聞き上手の人と会話すると結構話しが弾むのをよく経験します。もともと、情報を発信することが嫌いな人はいないのではないかと思います。
話し上手、聞き上手とは突き詰めて考えると、相手の方を思いやる心を持っているということではないでしょうか。思いやりの心があれば、相手の方を疲れさせるというようなことは無いように思います。たとえそれが、気のおけない仲間内であったとしても。

ラムはほんとに聞き上手だと思います。残念ながら、右から左に聞き流してしまうところが玉にきずでしょうか。聞き流されないよう、意味ある発信をしてやりたいと思います。




日本株式会社
「よう、どうした日本株式会社」と言われるほど、今の日本は惨憺たる状態のようです。かつては世界のリーディングカンパニーだった日本を思うと、今の凋落振りは目を被うばかりです。
日本国を株式会社に見たてて考えて見ると、首相を社長に頂く取締役会が内閣に相当するのでしょう。社長を支えるのではなく取り囲むのが、社員たる国会議員ということになります。国民はというと、日本株式会社に出資するさしずめ株主に相当します。
参議院と衆議院はこの際あまり関係ないとして、ちょっとややこしいのが与党と言われる自民党と連立を組む2党、それと民主党を筆頭とする野党の存在です。
派閥と言う集団は会社の中でも大なり小なりあるので理解できるとして、どうも与党と野党の関係は会社組織の中では考えにくい存在です。まあこれもあわよくば株主の信任が得られれば、会社の次ぎを狙う集団と位置付けて理解することにしましょう。

こうやって日本を日本株式会社に置き換えて考えた時、どうしても分からないのが今の社長の言動です。いったい日本会社をどうもって行こうと言うのか、そのためには何をしようとするのかさっぱり分からないし、見えてこないことです。
親方日の丸、善きに計らえで上手く行っている時はいいでしょうが、今日のように会社の危機に瀕している時は、どの企業もそうであるように、経営者が強い信念でリーダーシップを発揮しないことには立ち直らないのではないでしょうか。今の日本株式会社には、強力なリーダーシップを発揮する社長が必要なのです。

日本会社の社長の悲鳴が聞こえそうです。「何で私の足を引っ張るようなことばかりするのか。社長をいじめるのは私限りにしてもらいたい」 こんなことを言ったとか言わないとか新聞に出てましたが、気持は痛いほど分かりますし、その通りなのでしょう。しかしこれでは日本会社は浮上することは出来ないのではないでしょうか。
今となっては、「この日本国を救えるのはこの人しかいない、ぜひ力を合わせこの人をもり立ててこの日本会社を救って欲しい。株主の国民も協力してください。」と言って身を引くのが一番の貢献ではないかと思います。ただ今の社長が推薦した人が、次ぎの社長に適任かどうかははなはだ疑問ですが。

私達株主である国民ができることは限られます。しかし株主が正しい澄んだ目で、ほんとに日本株式会社のために働いてくれる社員を選んで会社に送りこまなければ、配当はおろか株券そのものが紙くずになってしまうかもしれません。
分かりにくい社会の仕組みをこんな風にでも考えて、現実はやれることをやっていくしか仕方ないのかなと思います。まずは株を持つために汗することが大事なことなのでしょう。国会で働く議員さん達は、こんな国民の声を背にして汗を流してもらいたいものです。




ブラックボックス
入力(インプット)があって出力(アウトプット)があり、入力と出力の間に箱(ボックス)があって、この箱がいろいろな働きをすることによって、入力したものが目的のものとして出力される・・・世の中のいろんな出来事や現象を、こんなモデルで説明することができます。
挽いたコーヒ豆と水をコーヒメーカに入れると、おいしいコーヒが出てくるというたとえの場合、挽いたコーヒ豆と水が入力で、おいしいコーヒが出力ということになります。この場合コーヒメーカは箱に相当し、どのコーヒメーカをとっても仕掛けや原理はだいたい同じです。

ところが入力するものは同じであっても出力されるものがいつも違ったり、出力されるものはいつも同じでも、なぜ同じものができてくるのか理由が分からないという場合があります。
入力と出力の間にある箱がどんな働きをするのか、どんな仕掛けになっているのか人知ではうかがい知れない場合があります。このような箱のことをブラックボックスと呼んでいます。
たとえば上薬を塗った陶器と薪を窯に入れ精魂込めて焼き上げた結果、名器といわれる器ができたり、割って捨てるような器ができる場合があります。このときの窯はさしずめブラックボックスといえるでしょう。
余談ですが、航空機事故で問題にされるフライトやボイスレコーダが収められている箱もブラックボックスといいますが、箱自体は見つけ易いように赤く塗れています。事故原因が究明できる情報がこの箱の中に入っているという意味でブラックボックスといっているようで、ここで言うブラックボックスとはちょっと意味が違います。

人間はこれまでにいろんな分野で、このブラックボックスを解明しようと努力してきました。上で紹介したコーヒメーカや窯という物(ハードウエア)は、物理的に作って試してみることができます。ところが情報が入力となるようなブラックボックスは、物理的な物を作って試すことができません。そこで威力を発揮したのがコンピュータの出現です。
たとえば現在の観測地点での風向、風速や気圧などの気象情報(入力)を、コンピュータを動かす命令(プログラム)で模擬的な現象が実現できるモデル(シュミレーションモデル)に当てはめていくと、数時間、数日後の高気圧、低気圧や台風の進路や気圧の予報(出力)ができるなどはいい例でしょう。(この時のプログラムやプログラムで作られたモデルを先ほどのハードウエアに対してソフトウエアと呼んでいます。)
シュミレーションモデルが精巧なほど正確な予報が出ますが、そのためには出力を現実と突き合わせてモデルの修正をするなどの試行錯誤が欠かせません。

理科系の分野ではこのブラックボックスの研究は随分と進み、もっとも神秘といわれる遺伝子の探求まで進んできました。
物質の研究も分子、原子から今や素粒子の研究が花盛りです。微細な科学現象まで研究は進んでいることに反し、微細物資の集合体である人文系の研究が遅々として進まないのはどうしてでしょう。
社会現象といわれるものも、このブラックボックスがいたるところにあって、解明できないでいます。元をただせば人間の作った箱が、永い年月と人を経るうちに得体の知れないブラックボックスに膨れ上がって、今や人知の及ばない怪物に成長して人間を悩ましています。
今の日本の政治、経済、社会の現象を見ても、人間のコントロールの及ばないブラックボックスが沢山あって、いろんな施策を打っても期待する方向に向きません。ただ分かっているのは、人文系の構成要素が未だ解明できない遺伝子でも素粒子でもない、人間だということです。

政治、経済、社会のブラックボックスは所詮人間が作ったものであるなら、ブラックボックスの仕掛けを解き明かすのもそう難しいことではないのではという希望が持てます。
いや、気まぐれな人間が作ったんだからこそ難しいとも言えますが、ここは一つ日本の危機存亡にかかわることでもありますので、同じ方向を向いて一つ一つブラックボックスを解き明かして行く努力をしようではありませんか。

犬のロボットが人気を博しています。これとても入力に対してとる反応(出力)は、犬の形をしたロボットという箱に組み込まれたプログラムの範囲であって、ある意味ではなんの意外性もありません。
ラムをロボットと一緒に考えることじたいラムに叱られそうですが、共に暮らしていて思うことはラムは意外性の固まりです。
そして人間を考えるとき勇気づけられるのは、あのラムですらと思うことです。




勧善懲悪
犬のしつけの基本は、コマンドに対して絶対服従にあるといえます。コマンドの目的を考えてみると、そのコマンドに従わなければ身の危険にさらされる、社会に迷惑を掛けるという種類のものが多くあり、一般家庭にいる犬に対するコマンドは、この類のコマンドが大半です。
だからコマンドに対して犬は絶対服従でなければ、人間社会で暮らしていくためには困ったことになります。

犬自らが身の危険や反社会的な行為が判断でき、決してそのような行動をすることが無いと確信が持てれば、そのようなコマンドを出す必要はないのですが。
我が犬といえどもそこまでは確信がもてず、何歳になってもコマンドを出し続けるのが普通ではないでしょうか。犬の知能は、所詮その程度と判断しているからです。

犬にとってみても、出されたコマンドがどういう目的で出されたかは判断できなくても、ある程度の教育がなされれば、出されたコマンドで何をしなければならないかは理解できるようになります。出されたコマンドに条件反射できればしつけは満点です。
しつけの教育方法も、コマンドが実行できれば食べ物がもらえるという、条件反射を利用することからはじめることが多いでしょう。犬は食べ物をもらうために、出されたコマンドの意味が分からなくても実行するという訳です。
更に進んで、食べ物でなく誉めてもらえることを期待して、コマンドを実行するようになれば大進歩です。

コマンドができたら大袈裟に誉めろとよく言われます。しつけもいまだしのラムは、食べ物の報酬が無いとコマンドに対する反応は緩慢です。できるとしっかり誉めてやるのですが、誉め方が旨くないのかあまり感動してくれません。
かといって分かってないかというと、嫌々ながらでもスローモーにコマンドを実行しますので手を焼きます。なぜそのコマンドが出されたかは、全然分かっているようには思えません。
このコマンドを実行することが楽しいとラム自身が思うようになる日を夢見て、いつまでもしつけを続けていくしかありません。

犬のしつけはこのようなものでもいいでしょうが、人間のしつけはそうはいきません。今このことをしなければどういうことになるか、しつけられる一つ一つの意味を理解し、身に付けていくことが大切なのは言うまでもありません。
そしてある年齢になると、自分で事の善し悪しが判断できるように教えてやらなければなりません。

今下の息子のお子さんは2歳半になりますが、両親から「ダメ」といわれたり「良くできたね」と誉められたりの洪水の中にいます。「ダメ」と言われたことをしたらどうなるか、一つ一つ体験しながらことの善し悪しを学んでいっているようです。
息子達には、犬のしつけと同じように誉めて育てろよと言って聞かせますが、自分の子育ての時は叱ってばかりいた事を思うと反省しきりです。たまに来るお子さんを見てても、いい事をして誉めてやると得意げになるのは微笑ましいものです。しつけ教育の原点は、やはり家庭ではないかと思います。

今のままでは、やがて日本という国が自滅、自壊してしまうのではないかといわれるなか、国の力、民力はいろいろな尺度で計ることができるでしょう。
国民が生きる事に楽しみを見出し、明日に希望を持つ国の基本は、勧善懲悪をはっきりさせることではないかと思います。
こんなに悪人がのうのうと生きられる国の未来に、誰が希望を見出すでしょうか。ラムのしつけをしながら、ふとそんなことを考えてしまいます。




真相究明
ここ2回ばかり、同じようなテーマで取り上げられたテレビの取材番組に、真相を追究する事の難しさをつくづく感じました。
一つはNHKの「クローズアップ現代」で取り上げられた7年前の事件です。警察の調査で当時同棲中の女性が、別れ話から灯油を撒いて自殺したというものです。同棲の男性の供述が採用され、女性が放火の上自殺したという事で、当初男性は不起訴処分となりました。
不審に思う両親の執念と、この事件が民事裁判では有罪判決となったことが警察を動かし、一転この男性を殺人と放火の疑いで起訴する事になったというものです。

もう一つの事件は、民放の鳥越さんがニュースキャスターを勤める「スクープ21」という番組で、徳島県の男性が女性との縺れが原因で橋から身を投げて自殺したという事件です。司法解剖もそこそこに、警察は女性問題を苦にこの男性は自殺したと断定、捜査を打ち切ってしまったというものです。
自殺に疑問を持った妹さんは、独自の調査を元に自殺の可能性を否定、再三の再調査要求に警察は再び捜査するも当初の自殺との断定は覆せず、妹さんは万策尽きて民放の取材に協力する形で、お兄さんの自殺を否定し真相を究明しようとする番組でした。
いずれの番組も、警察の初動捜査と予見をもって行われる捜査の拙劣さを指摘していました。天下のNHKがこの種の警察の不手際を取り上げたのは、警察がその非を認めた事件だったからだろうなと一人納得してます。
「スクープ21」の方は、鳥越キャスターの事件記者としての執念で、警察が放棄した真相の究明をしてやろうとする心意気を感じます。

事件の真相は知る由もありませんので云々するつもりはありませんが、事件や事故の真相を究明することに被害者(この場合は亡くなっていますが)や被害者の家族になんと多くの労苦を強いるのだろうと、強い憤りと疑問を感じます。
医療事故、交通事故、事件で被害者が肉体的、精神的に苦しみ、その上真実を究明、証明できない事で当然償われるべき補償や慰謝料がもらえず、悲痛な叫びを上げておられる方を新聞、テレビやホームページで最近よく見かけます。
被害者がなくなった場合は死人に口無しで、被害者の責任で事故が起きたように処理されるケースも見聞きします。なぜこんなことになるのでしょう。真実を判断する当事者の不誠実、忙しさに隠れた怠慢と思わざるを得ません。

番組で取り上げた事件でも、明らかに結果と矛盾する事実が出た場合、これを突っ込んで究明するかどうかは警察の裁量にかかっていることを思うと、警察はその責任の重さを充分理解してもらいたいとつくづく思います。
社会の信義を判断する構造がしっかりしてないと、われわれ市民は何を信頼して生活していけばいいのか分からなくなってしまいます。
この種の判断は、人間の性悪説に立って行うのが一般的なんでしょうが、そうであればもっと迅速に簡便に真相を究明、審議する制度があってもおかしくないと思います。
世の中の仕組みはそう簡単でないというのは詭弁であって、誰でもが納得できる分かり易い社会にすべきではないかと思いますし、私達も声を大にして要求しなければならないと強く思います。




理系と文系
’01年も間もなく4月、街には学生や社会人の新人が希望に溢れた顔で闊歩するようになるでしょう。ひところのようには言われなくなりましたが、今でも学生なら理系、文系の学生、社会人なら技術系、事務系の社員と言うくくりで、進路や職種を選択しそれぞれの新天地に落ち着いていくことでしょう。
最近は体育会系という分類もあるようですが、これは理系、文系とは関係なくどうも性格や体形から分類しているようです。
不況の時は就職は理系が有利だとよく言われました。日本が工業国と言われた時代はそうだったかもしれませんが、果たしていま通用するかどうか。
企業全般からすると技術系の採用人員の方が多いようですが、専門分野も職種も色々な知識を要求されるようになった今日、理系、文系と言う分類に意味があるかどうかはなはだ疑問に思います。

自分や家族の事を考えて見ると理系、文系の、どちら系人間か分けることはできそうに思います。その分類の根拠は、やはり教科の好き嫌い、それがひいては成績になって表れ自他ともに理系、文系と決めてしまうようです。
人によっては最初の選択を誤り途中で進路を変更したり、また多才のゆえに理系、文系どちらの道も極めたり、進路と職種が違って専門が変わったりする人もいるでしょう。しかしどうも人は、理系人間か文系人間かどちらかに属するように思います。
ではその違いは人間の思考過程が分かれるからかと言うと、一方で合成的・感覚的な右脳型人間と分析的・論理的な左脳型人間という分類もあったりして、訳が分からなくなりそうです。ここでは人間の何が理系か文系かは置いておくことにします。

社会生活をしていく上で、私達が係る制度や組織がブラックボックスでは困ります。
このボックスを考えたり作ったりする時にかかわる人間が、理系か文系かに偏っているとしたらバランスのとれたボックスは作れないのではないでしょうか。ましてや限られた人間で作られて、社会を動かす組織がブラックボックスになったんでは、どんな社会になっていくのか不安でたまりません。
学問や仕事をして行く上では理系、文系という分類の人間がいれば済みそうですが、どうも社会を機能させるにはもっと違った、人系とでも言うような人のことがよく分かった人間が必要なように思います。

ラムの住んでいる犬社会が、人間にとって極めて付き合いやすい世界なのは、理系、文系、人系という分類がなく、犬系というただ一つの社会だからではないかと、勝手に思ったりして一人納得してます。




性格
ゴルフの祭典、4大メジャートーナメントの皮切りであるマスターズも、希に見る接戦の末下馬評通りタイガーウッズの優勝で幕を閉じました。
日本からも4位タイの快挙なした伊沢選手や40位の片山選手、そして残念ながら予選落ちした丸山選手の3人が参加し、それぞれの思いで戦ったことでしょう。その中でも初出場でマスターズ歴代日本選手の中でも最高成績の4位タイの伊沢選手には、ゴルフファンならずとも大きな拍手を送るに値する立派な成績だと思います。

ゴルフはプレーする人の性格が良く出るスポーツだと言われますが、プロのトーナメントでもプレーする選手の性格を垣間見ることがあって、おもしろいことがあります。
ゴルフはメンタルなスポーツだとか大袈裟には人生を象徴するスポーツだとかいわれますが、やはりある程度の技術レベルに達してからのことであって、右に行ったり左に行ったりしていているレベルでは、メンタルの出る幕もなさそうです。
ただ性格がよく出るスポーツと言う点では、ビギナーもプロも性格の出る舞台背景は違いますが、プレーヤーの性格がよく出て冷や汗をかいたり納得したりすることがあります。

ジャックの名で親しまれ一世を風靡したジャックニクラウスに見るように、プレイ中はどんな窮地に立とうがおいしいバーディーチャンスに付けようが、喜怒哀楽を表に表わさず淡々とプレーするプロゴルファーをよしとする風潮がありました。
そして今、喜怒哀楽とまでは言わないまでも、満を持してのバーディに雄たけびを上げながらガッツポーズをし、はずしたバーディーパットにしょげかえるタイガーウッズに、ゴルフも時代が変わってアスリートのスポーツと言われるようになりました。
下手な横好きではありますが私が思うゴルフは、一打一打の結果に一喜一憂するよりもニクラウスのように最終の目的を求めて、ある時は求道者のようにまたある時は哲学者のように見える姿に魅力を感じます。

伊沢選手のプレー振りを見ていると、師匠であるジャンボ尾崎とは全く違ったすがすがしさを感じます。若干勝負に執着しない物足りなさを感じますが、淡々とプレーする姿に人生の荒波に歯を食いしばって生きていく姿を見るような思いがします。
3日目の2オーバのスコアにさぞかしカックリと来てるかと思いきや、終わった後のインタビューをみていると若干うつむき加減ではありましたが、にこやかに明日への希望を言ってたのが印象に残りました。

ラムとの生活は喜怒哀楽を精一杯表に出して、ことの善し悪し、うれしい時悲しい時それぞれの状況に応じてオーバーに分かり易く態度に出すことが必要なようです。
淡々とした態度で接していると、どうもラムに馬鹿にされるのが落ちのようで、心して接していかねばと思っています。




公衆道徳
公衆道徳、最近余り見聞きしなくなった言葉ですが、公衆道徳を問題にする必要がないほど世の中が良くなったからかと言うとどうもそうでなく、公衆道徳を云々することが今の風潮にそぐわないと言うか、今更そんなことを問題にしてどうなるのかと言うような感じがしてならないのです。
その理由の一つに私達がもつ道徳上の善し悪しの基準が、老若男女によってかなり違うことにあるのではないかと思います。

道徳でいう善と悪の分かり易い判断基準である「人に迷惑を掛けない」ということを取ってみても、年齢によって随分違うのではないでしょうか。
若い人たちの判断基準は、人=他人であって他人様に直接的な迷惑を掛けなければ、何をしても許されると言う判断です。直接的なと言う意味は正に物理的な迷惑で、他人が感じる不愉快感と言うような心情的な迷惑はお構い無しと言う考え方です。
さらに最近感じることは、単に老若で考え方が違うのでなく人それぞれ道徳的善悪の基準が違うと言うことです。いや、違うように感じると言うことかもしれません。道徳的絶対悪の基準が曖昧であれば、公衆道徳を云々することが無くなるのも致し方ないでしょう。果たしてこれでいいのでしょうか。

このところ電車の中で、長椅子に座っている女性が化粧をする場面に良く遭遇します。汗かなんかで崩れた化粧を直すのでなく、すっぴんの顔に基礎化粧品とおぼしき化粧水をつけるところから始まって、口紅、アイシャドウやマスカラを塗って終える化粧一式の所作を見ることがあります。この行為は公衆道徳上当然善とは言えませんが、悪なのでしょうか。
どうも道徳上の善悪の基準が曖昧になったのは、この電車の中の化粧が道徳上の判断基準からして「悪ではない」と言うことが一般化したころから始まったように思うのです。少なくとも明治生まれの母親の世代では、きっと悪だったと思います。しかし今この行為を道徳上悪だと言えば、古い、硬い、何故、他人に迷惑をかけたわけでもあるまいにと言われるでしょう。
今の世の中が殺伐としてきて、他人の迷惑を顧みず、自分勝手になって住みずらくなったと思うのも、あながちこのことと関係なくはないと思います。

化粧という行為はやはり結果に意味があって、その過程は見せるものではないと考えるのは古いでしょうか。まつげにカールを掛けるのに口をあんぐり開けて鏡を覗きこむ光景は、大衆に見せるしぐさではないように思います。結構楽しんでるんじゃ〜ないのと言われるかもしれませんが、やはり見てて不快に思いますよ。
ラムの顔も白髪が出てきました。若々しいイエローのファンデーションで化粧でもしてやろうと思いますが、散歩に出る前に家の中で塗ってやろうね、ラム。




サイト進行
サイト発進から1年と10ヶ月、別に節目でも区切りでもないのですが、自分のWEBサイトを運営してきて最近感じること書いてみました。いささか自分のWEBサイトに対する、倦怠期の感想とでも言ったところです。

サイト発進の動機
私が個人的に自分のWEBサイトを持つということが、どういう意義があるか、正直今でもこのことは私にも分かりません。いや分からないのではなく、そのことを考えるとサイトを続ける気力が失せてしまうから、余り考えないでいるだけかもしれません。私的なWEBサイトは所詮個人的な趣味であって、意義などもともとないと考えるからです。

もちろん立派に意味のあるサイトは沢山あります。サイトを通して情報発信することが本業か、または本業の手段として運営してされているWEBサイトは、大いに意味があるといえるでしょう。意味があるとは、運営するWESサイトが価値を生み出すということです。

趣味なら趣味で自分の中で閉じてしまえば良いものを、WEBサイトを運営していると、自分のWEBサイトを人に押し付けたり、宣伝したくなるので困ったものです。人に知ってもらうことに意味のあるサイトであれば大いに宣伝すればいいのですが、別に価値をもたらすものでなければ、宣伝することにどんな意味があるのかと自問してしまいます。
一方コンテンツの内容に価値があるならば、公開して人に見ていただくことは大いに意味があると思います。個人的な趣味は、人に見ていただいて何の価値をもたらすか、疑問に思うこの頃です。

さて所詮趣味ですから、その中に喜びや楽しみがなくてはやっている意味がありませんし、こんなに永く継続もできなかったでしょう。サイトを運用していて私の喜びや楽しみは、こんな見てくれのページを作って見たい、こんな新しいテクニックを使ってみたいと思い、それを自分なりに調べたり考えたりして、実現していくことです。
サイトを作って行くテクニックも色々新しい技術が生まれて、それを使いこなして行くのも楽しみなことですが、限界を感じます。自分でプログラムまで組んでいければ、違う世界も広がるのでしょうが、所詮部品のアッセンブルでは広がる世界も限度があります。

その点では素人なりにまた自分なりに、WEBデザインに興味を持って入っていくのも、違う世界が広がるなと思います。しかしこの世界は芸術の領域、センスの世界ですから、自ずと踏みこめる範囲が限られます。
全くの素人が、自分のWEBサイトを維持していくことに、テクニックの面やデザインの面で限界を感じたとしたら、残る魅力はコンテンツの中身しか残ってないのかなと思い至っているところです。
多分喜びや楽しみがコンテンツの中身、内容であったなら、自分のWEBサイトに対する気持も違うものがあるだろうと思います。私としては、コンテンツの中身の方がもっと奥が深そうだし、間口が広いように思え、何よりもWERサイトを運営することに、大いなる価値を感じるからです。しかしそれは学術論文を書くよりも難しいかもしれません。

サイトを立ち上げる意味として、テクニックやデザインを趣味として中心に据えるとしても、コンテンツをどうするか、何をテーマとして取り上げるかがやはり問題となります。WEBサイトを立ち上げるこの入口で、しっかりした目的がないと、ある時期がくるとここに書き連ねているような後悔と虚しさを感じ、冒頭に上げたような自問自答をする羽目になるのでしょう。

アクセス数へのこだわり
WEBサイトを運営されて居られる方なら、自分のサイトのアクセス数がどうか、どれ位アクセスされているか気になることでしょう。私もその一人です。
「アクセスを向上させる法」を説いた、サイトや本が受けるのもそのためです。一方では「アクセス向上の呪縛を解く法」などもあって、アクセス向上を目的にすると、良いコンテンツができないとも、気にするなとも説いてい激励してくれるサイトも見うけます。それほどサイトを運営しているものにとって、アクセス数は気になる存在です。私がWEBサイトの運営の倦怠期に入ったとしたら、このアクセス数は無縁ではないでしょう。

しかし自分の主張を世に問うわけでもなし、趣味で作っているサイトに、どれだけ人が関心を持ってくれるかは、関係ないではないかと諦めると気も軽くなりました。自分が楽しめば、自分のサイトを持つことが自分に意味をもたらせば、目的の大半は達成されているんだと思うようになりました。
自分が作ったサイトが更に人の共感を頂き、喜んでもらうことがあったとしたら、それは目的以上の意味があったと思うようになりました。

自分でWEBサイトを運営して変わったと思うことに、目的無しでサイトを見るときは、コンテンツの内容より、構成だとかデザインだとか色使いについつい目が行っててしまうことです。ついつい自分のサイトと比較しながら、見てしまうことが多いようです。
そう言う意味では、自分のサイトを持ってなかった時の方が、コンテンツの中身をじっくりと見ていたような気がして、これもアクセス数が気になることの成せる業かなと思います。

最近4夜に亙ってNHKのBSテレビでITについての放送がなされましたが、その中の「IT王」決定戦を見ました。ご覧になった方もいらしゃると思いますが、課題の回答をインターネット上で探し出すというものでした。インターネットも業務系で使われることが多くなりましたが、従来からの使われ方は、この必要とする情報をインターネットで得るということでしょう。
コンテンツの中身もこの情報、あの情報はこのサイトでということになれば、アクセス数も上がってくるでしょうが、そのことを本業とするサイトにはかないません。
いずれにしても必要とされる方がサイトを訪れてくれるわけですから、サイトを運営するにあたっての目的を今一度自分に言い聞かせて、気を取り直しサイト進行!と参りましょう。




我慢
「切れる」だとか、「逆切れ」だとか、なかなか我慢しきれず爆発してしまうことが事件になって、新聞やテレビを賑わしています。
いわれの無い我慢をする必要はさらさらありませんが、些細な事に対する我慢が出来ず社会生活が潤いの無い砂漠のようになってしまうのは、なんとも暮らしにくいものです。
言葉の遊びではありませんが、我慢に我慢を重ねた結果堪忍袋の緒が切れることと、先にあげた最近使われる「切れる」は同じ語源でしょうが、受ける印象が随分と違います。「切れる」は我慢することが一切省略されているような気がします。なんでいとも簡単に切れてしまうようになったのでしょう。

犬をしつける時に教えられる事の一つに、課題を与えたらできるだけ犬に考えさせることをしなさいと言われます。何が「して良い事」か、何が「して悪い事」か経験的に教えることを繰り返します。そして「して良い事」を選択した場合は飼い主からほめられ、その犬にとってうれしいこと、楽しいことであることを実感させて「して良い事」を選択するように仕向けます。
ここで大事なことは、「して良い事」は飼い主から、自分以外から、社会からほめられて楽しくなり、やってよかったと思うことです。本人にそう思わせるには、かなりまわりの努力が必要です。
一方「して悪い事」は、それ自体をすることが易しいし、楽しいし、本能的に選択しやすい行為であることです。やっかいなことに、「して悪い事」はそれ自体が楽しい事なのです。
こう考えると、しつけをするということは、易きに流れることを我慢させることの訓練なような気がします。どうもここにしつけの原点があるように思います。

間もなく3才になる孫が遊びに来た時、同じような年齢の子供達が遊ぶ公園に行きました。孫でもいなければ公園で小さな子供達の遊ぶのを見ることなど無いのでしょうが、そこで些細な事ですが大変興味ある光景をみることができました。
滑り台に上がる階段で、順番を待っていた子供をそれよりちょっと大きな子供が来て、その子を押しのけ先に階段を上って行ったのです。その子は唖然としたような態度でじっと階段の方を見てましたが、しばらくしてべそをかき傍にいたお母さんの所に行って顔を押し付け、悔しそうによよと泣き出したのです。その子にとってはよほど悔しかったのでしょう。
大袈裟にいうと、社会正義のためにこのお母さんはちょっと大きな子供をつかまえて、ことの善悪しを諭し反省させることが大きな子供にとって良いのかも知れません。一方自分の子に対しての教育の面からすると・・・。
その子のお母さんが取った態度は、その子を強く抱きしめて何やら話しながら背中を軽く叩きやさしく涙を拭いてやりました。ほんの些細な事かも知れませんが、我慢することを教える現場を見たような気がしました。

ラムに食事を与える時、必ず右の前足を私達の手に乗せて食事の前のお祈りをします。そのうちラムの口からよだれがつつと流れ落ちます。可哀想に思いますが、決め事にしている以上一通りのお祈りが済むまで我慢をさせます。
別に特段の意識をしている訳ではありませんが、ほんのひとときではありますがラムは我慢を認識し、私達はそれを見てホッとしている、そんな毎日です。




犬畜生
「犬畜生に劣る」、最近の新聞、テレビで報道される幼児虐待、幼児殺しを見聞きするたびにこの言葉を思い出します。
畜生を辞書(三省堂 国語辞典)で引くと「うまれつき おろかで ほかのものに養われるもの。動物。」とあります。犬と畜生を同義語として二つ並べて使われたものでしょうがワンちゃんにとってはとんだ迷惑な言葉ですし、最近はワンちゃんの品性も高くなったのであまり聞くことは有りません。
この言葉で、私は黒沢 明監督の'65の作品「赤ひげ」の1シーンが強烈に思い出されます。

「赤ひげ」は山本周五郎原作の映画化で、黒沢監督が私の映画の集大成というほど中身の濃い映画でした。このセリフがでるそのシーンは、オランダ医学を修めたばかりの保本 登が、初めて患者の死に直面するところから始まります。学問所を出て赴任を命じられた小石川養生所は庶民を対象にした今で言う総合病院で、身分も気位も高い保本は嫌で嫌で出て行きたくて仕方有りません。
そのことを百も承知の院長である新出 去定は、保本も知らなかった蒔絵師六助の病名を言い当て、そのガンに冒された六助の死を見取るよう保本に命じます。1人になった保本は、苦しみながら死んでいく六助の壮絶な死に、正視できず腰を抜かして驚きます。
問題のセリフは、六助の娘おくにが亭主の言い付けで六助に金の無心をするため子供と一緒に養生所を訪ね、六助の死を知って亭主とのことを泣きながら腹の底から絞り出して言った時のセリフです。

新出 去定は、保本をそばにおいて、おくにに尋ねます。
「六助は口には出さないが、いつも深い苦しみを抱えていたようだったが・・・」
「・・・今の亭主は・・それはひどい男です。おっかさんと駆け落ちをしたあげく・・わたしまで・・そしてそのわたしはその男の子供までつくって・・・わたしは犬畜生にも劣る人間です・・。」
「もういい、それ以上いうな」
「それで・・・おとっつあんは安らかに死んでいったんでしょうね・・」
「そうだ、何の苦しみも無く安らかに死んでいったぞ」
「そうでなくっちゃ、そうでなくっちゃ・・・」
保本は新出 去定の顔をしみじみとみて、去定の人柄に感服するのです。その後保本は去定の人間性に傾倒し最後には小石川養生所で働くことになるというものです。上の去定とおくにのセリフは映画の台本を正確に著わしているか心配ですが、六助、おくにを演じた藤原 釜足、根岸 明美の演技は今でも忘れられません。

幼児虐待や幼児殺しを見聞きするとライオンの子殺しを連想し、目が合って喧嘩の挙句殴ったり殺したりは正に畜生そのものと言われても弁解できません。
「そんな事をすると畜生にも劣るぞ」と言われて、そこまで言われて素直に恥ずかしい思った時代の方が、今よりもずっとましな時代だったのでしょうか。悲しいことです。




バリアフリー
毎朝の通勤電車、決まった時間の電車には決まった顔の人を見掛けることがよくあります。まして始発電車だと、座る座席もほぼ同じ場所になってしまうから面白いものです。
勇気を出して声を掛ければ、毎朝顔を合わせている人なので次からは世間話も出来るんでしょうが、そう思っているうちに顔を見なくなってしまいます。
毎日のことでもあり、毎日決まった時刻に発車する電車を使うことが多いので、決まった時間に会社の最寄りの駅に着きます。そしてこの所、駅のホームで決まってみかけるようになった光景があります。

ホームから改札口に通うじる階段にエスカレータが設置され、階段を上る方にとっては楽になりました。ただ階段の幅の半分ぐらいを占有しているため、歩いて昇降する方には階段が狭く通りにくくなりました。
通勤時間のラッシュ時決まってみかけるようになった光景とは、このエスカレータに立ち入り禁止のチエーンが張られ、数人の駅員さんがエスカレータの上と下で待機しているのです。エスカレータは使えないので、階段は狭い上に昇り降りの乗客で一層混雑します。こんなラッシュ時に何をしているかと思っていましたが、様子はすぐに理解できました。
車椅子の乗客が次の電車で到着し、このエスカレータを使って改札口に向かうそのための準備をしているようです。それにしても仕事とはいえ駅員さんもご苦労なことで、そして随分仰々しいなという感じがします。
こんな光景を目にして何日か後、車椅子の乗客が実際にこのエスカレータを利用する場面に遭遇しました。お母さんらしき人に車椅子を押され、駅員さんに支えられて娘さんが車椅子ごとエスカレータで降りていきます。お母さんも娘さん、もひどく申し訳なさそうな姿が印象的でした。

車椅子を利用する障害者に対して、ビルや道路の施設に対するバリヤフリーの対策は随分進んできました。しかし欧米に比べて対策の内容は未だ十分でありません。
一番の違いを感じるのは、バリアフリーが施設の義務として建設段階から自然に取り入れられている欧米に比べ、日本では障害者のためにバリアフリーを後から施すという点です。障害者のための施設が、まだまだ特別な施設だという認識が強く感じられます。
先ほどの、障害者が車椅子に乗ってエスカレータで改札口に向かうこと一つをとってみても、エレベータがあればエスカレータを止めて駅員が待機するようなことも必要ないでしょうし、一番気になることは障害者が要らぬ負担を感じることではないでしょうか。
ラッシュ時にエスカレータを止めて、乗客の衆目に耐えて多くの駅員に助けられ、エスカレータを独占することの心の負担は並大抵でないだろうと思います。もっと障害者が、気楽に乗り物を利用できる時代が早く来ないものかと思います。

ところで我が家のバリアフリーはどうなっているかそんな目で見てみると、おおよそ何の対策も無いことに愕然とします。夫婦して年をとっていくことを考えると、何かの機会に考えねばと思います。
今、我が家で一番バリアフリーを望んでいるのはラムのようです。庭から入ってくると玄関のたたきで座って家の中の様子を伺っています。チャンスがあれば部屋の中に入っていくのですが、上がりがまちにちょっとしたバリアが張ってありあがることが出来ません。このバリアフリーは何時になることやら。




老化
 老化、いずれは訪れる生理的現象ではありますが、私も老化を真剣に考える年頃になりました。いや、「年頃」とはもっと若い年代に使われる言葉であって、考える「年」になったと言うべきでしょう。それほど自分には関係ないことのように思えた老化が、いろいろなところに顔を出してきています。還暦が人生の一巡とするならば、二巡目に入ったこの年では仕方ないことかもしれません。
 「希望が無くなった時から老化は始まる」と言われますが、確かに肉体的老化と精神的老化は別な領域の現象かも知れません。今その戸ばくちに立って確実に訪れている老化にどう処していくか、あたりをきょろきょろ見まわしているような心境です。

 「健全な精神は、健全な肉体に宿る」という標語を、小学校の教室で見たことを思い出しています。 明日への希望、気力の充実はやはり健全な身体でしか持ち得ないのではないか、と言う漠然とした不安を感じます。しからば確実に進行する年齢に抵抗して、肉体的、精神的な老化を少しでも遅らせる方策を実行することを心掛けることが大事なことなのでしょう。
 
毎日のウォーキング、水泳、太極拳等など肉体的老化を防ぐレシピには事欠きません 。しかし、この運動がどの程度の老化の予防になるか何の保証も有りません。この世の中、施す対策が事態を好転することを保証するのは、科学分野を除いては無いと言っても差し支えないでしょう。科学の分野でさえ構造が複雑になって、高性能なコンピュータのシュミレーションでも予測できないことすらあります。
手をこまねいているくらいなら、考えられる対策を打って様子を見るという試行錯誤の繰り返しが、私達の暮らしている社会の現状のように思い ます。
肉体的老化防止の対策も、同じようなことが言えるのではないでしょうか。場合によっては健康に良いと思った運動が、逆に肉体を傷つけることさえあったりして慌てて止めること さえあります。今の医学で誰しも恐れる老化のひとつ痴呆の恐怖から、どうして逃れることが出来るでしょうか。肉体的老化でありながら、精神的老化現象を呈するだけに厄介極まりないように思います。

 精神的老化は肉体的老化と違って、何がしか自分で老化対策が出来そうに思うのは老化の若輩者の戯言でしょうか。痴呆という抗しがたい老化は別として、精神的老化は出来るだけ遅らせたいとの思いは誰しもの願望ではないでしょうか。
精神的老化を予防するレシピも事欠きません。しかし厄介なのは肉体的老化と違って、精神的老化は進行状況が分かり難いことです。客観的に見て老化によるボケも、本人の自覚が無いことも有り一層厄介に思えます。
医学の進歩によって、生き長らえることは出来るようになりました。しかし、誰しもが自ら人間としての尊厳を保ちながら、生き長らえるという保証は残念ながらありません。

自ら人間としての尊厳を放棄している人は別にして、人生を終わる直前まで人間として生きていたい、今この至極当たり前のことができないことに、国として社会として問題が多くあるように思います。
不幸にして交通事故の被害者になった方への扱いひとつについても、医療、補償の問題でインターネットを通して訴えている状況を見るにつけ、人間に対する何かがかけているように思えてなりません。ましてや自ら自ずと進行する老化の問題に、国や社会があてにならなければ自ら何がしかの対策を立てねばとも思います。

こう考えてくると、老化、高齢化の問題は国、社会、個人が人間を究極的にどう扱うかの問題であるように思われてきます。
さしずめラムにとって、国であり、社会であり、個人である我が家が、老化の問題をどう対処してくれるか固唾を飲んで見ていることでしょう。




男気
力道山、ジャイアント馬場、最近見ることはありませんが、この往年のスターが活躍した時代のプロレスはよく見ました。特に高齢の女性が、このプロレスを見て興奮の余り亡くなることがニュースにもなった時代です。
悪役の外人レスラーに、反則を交えとことん痛めつけられグロッキー寸前になった力道山や馬場が、空手チョップ、16文キック一発で息を吹き返し、外人レスラーに報復の正義の(?)鉄槌を見舞って、やんやの喝采を浴び観客が溜飲を下げるというパターンです。

「俺の目を見ろなんにも言うな、男同士のはらのうち・・」東映映画の鶴田浩二、高倉健が活躍した任侠映画に、理不尽な社会悪を相手に一人立ち向かう男の正義感を感じたのはもう随分昔のことになりました。
この任侠映画は、血なまぐさい出入りの場面があったり、男の一人よがりなところがあったりして、あまり女性には共感を持たれませんが、義理人情至上主義に涙する人も多く、任侠路線として一世を風靡しました。これに家族愛、兄弟愛か味付けされ、素敵なテーマ音楽がつけばご存知イタリヤ シシリー島の仁侠映画ゴット・ファーザーとなって、こちらの方は女性にも結構人気がありました。

三船敏郎の余りの男臭さに女性人気も限られますが、「用心棒」、「椿三十郎」も悪に立ち向かうニヒルな男を描いた娯楽映画の傑作でしょう。世間に背を向けて生きているようで、実は正義と人間愛に溢れた男を上手く描いた映画でした。
この流れを汲むテレビドラマが、これまたご存知「木枯らし紋次郎」ではないでしょうか。こちらはあまり男臭さを感じさせない中村敦夫が演じたこともあり、当時は女性にも人気の高かった番組でした。
「あっしにゃ係りのねえここってござんす」と言って、実は気になってそのことに係っては悪を懲らしめる正義感の強い男「紋次郎」は、やはり人間愛にあふれ見終わって心癒されたものです。

上に掲げた感想は、わたしの独断と偏見から思いつく男気のイメージです。こう見てくるとどうも「男気」という言葉は女性に対する差別語のように聞こえますが、決してそうではないと思います。男気の目指す目標は、正義、人間愛であって、別に男、女の区別がある言葉ではないと思っています。ただ、不正や悪を懲らしめる腕っ節と度胸と体力が無いと、目的とする正義や人間愛はなかなか獲得できないようです。それは女性には無い男の持つ特徴であって、そのことを持って単に男気と言っているように思います。

「義を見てせざるは勇無きなり」と言う言葉がありますが、どうも最近は「義を見てすると殺される」恐れがあって、義を感じても見て見ぬ振りをする風潮があります。男気もついつい弱気になってしまったようです。
ラムを見てると、家族愛、人間愛は言うことありません。また怪しいものを見ると、不審げに奥へ逃げて行っては小さな声で「ウフ」と正義感を発揮します。さしずめラムは男気のある女の子というとこでしょうか。




裁量
裁量=自由に考えて処理すること。権限=法律上または契約によってなしうる行為の能力(範囲)。(いづれも 三省堂 広辞林)

あるプロジェクト完成させるために、企業のように組織で対応する場合と医者、弁護士、学者(学校の先生)のように個人で対応する社会の仕組みとでも言いましょうか、職業と言いましょうかが存在します。
企業が取り組むプロジェクトとは、橋や道路の建設であったり、新製品の開発であったり、ある物件の受注であったりします。医者、弁護士、学者の場合は、患者の治療であったり、ある訴訟の弁護であったり、ある研究論文の作成や学生の授業だったりします。話しを分かりやすくするために、ここでは企業の組織が持つ裁量と医者の持つ裁量について考えて見たいと思います。

法人=自然人でなく、法律上の人格を有し、権利義務の主体となり得るもの。個人=国家または社会を構成する個々別々の人。(いづれも 三省堂 広辞林)

企業の組織は法人の構成単位と考えられ、その構成単位は個人から成っていますが、社会的な権利義務の主体は個人ではなく組織にあると言えます。
一方医者は個人そのものであり、権利義務の主体は医者である個人にあると言えます。個人の医者が医療行為をするという権限は何処から生じるかというと、医師の国家試験と公的な資格の取得で与えられると考えられます。
企業の組織も医者もプロジェクトを完成、成功させるため(医者の場合は患者を治癒するため)の活動にはそれなりの裁量が与えられますが、一旦トラブルを起こしたり失敗した場合はその責任義務を負わねばなりません。そのために如何にトラブルを起こさず成功させるか、人知を尽くし、計り、協議を重ね裁量の範囲で最善を尽くします。
万が一その裁量の結果が失敗に終わった時は、企業の組織の場合は組織が(個人的には組織の長が)、医者の場合は医者個人が責任義務をとることになります。

ここで企業の組織と医者とでは裁量と責任義務の取り方に、大きな違いがあるというのが「裁量」というテーマを取り上げた理由です。
いま企業活動の社会的責任は益々重くなっており、雪印乳業の事件を例にとってもその責任ゆえに、企業の存続を危うくするような状況です。そのような事故を起こさないためにも、仕事の裁量は人知を結集し複数の英知によるデータや実績をもとに企業活動をします。それにも係らず起きた不幸な事故に対する社会的制裁は、いろいろと報道される通りです。
一方、医者の裁量と結果に対する責任義務はどうでしょう。国が認めた権限にもとづく医療行為の結果の曖昧さに、社会の多くの人が泣かされているというようなことは無いでしょうか。
先日NHKのテレビ番組で「医師の裁量」を取り上げていました。患者に対する医師の処方は医師の個人の裁量に任されるわけですが、その方法は医師によって異なるというものです。いままでは当然のように思われていましたが、この裁量の結果が助かるものも助からなかったとしたら事は重大です。医療行為の結果の責任義務の取り方が極めて曖昧なことが、最近の医療過誤の訴訟が多いことにも関係しているように思えます。
権限のあるもの、その裁量はまさに広大なものでしょう。しかし、個人の裁量は限りのあるもの、広く英知を集めてこそ、その裁量を使う権限が生きてくるのではないでしょうか。

ラムの裁量はどうか、家族はしつけをして裁量はあると思っていますが、本人はいや本犬は家族の考えている裁量を超えて活動することが多くあります。ここは一つラムと英知を絞って、ラムの裁量を教えながら生活していきたいものだと思っています。




人柄
あの人は人柄がいいとか悪いとか言いますが、人柄って一体何をさして言っているのでしょうか。多分に主観的であり、また人間の持つ多様な能力のある一部分を指しているようでもあり、総合的な評価を言っているようでもあります。

私は直接会ったことも話しを聞いたこともありませんが、亡くなった小渕首相は人柄が良かったと新聞に出ていると別に反論なくそうだなと思います。これが亡くなった首相でも田中角栄さんだったら、人柄が良かったと出ていたらう〜んそうかなと、納得行かない気になります。むしろあくの強い人だったと言えば納得するでしょう。
独断と偏見を顧みずさらに続けると、プロレスラーのジャイアント馬場は良かったがアントニオ猪木はどうも、プロ野球の長島監督は良かったが金田さんはどうも、大相撲の大鵬は良かったが北の湖はどうも等など、勝手にイメージを作っているものです。人柄って一体なんでしよう。

人間をテーマに据えて考えると、最後は人間として生きて行く意義だとか存在価値まで及んできて、とうてい私のような凡人には語れるようなテーマで無くなるのでほんの入口のところで止めておきたいと思います。
よくいわれる人柄とは、どうも一般的に言われているその人の才能や能力とは別の範疇の評価のように思えます。才能や能力が人間の脳と身体の連携活動によって発揮されるとするなら、人柄は言ってみれば脳の働きだけで充分発揮できる能力のように思います。
脳はその部位ごとに司る働きを持っているそうですが、近年この脳の持つ機能をシステムとして研究することが随分進んできたようです。認知脳科学といわれるそうで、いわば脳と心の関係を解き明かしていく研究です。人柄はまさにこの科学分野のうってつけの研究テーマではないでしょうか。
認知脳科学では、脳の機能をつなぎまとめる働きをするなかで前頭連合野という場所が、かなり人柄に関係ありそうだということが分かってきたそうです。
この場所は躾とも大いに関係あるそうで、また「他人の気持が分からない」などの想像力の貧しいのは(科学的に言うと知性障害)この場所の発達が未熟なことに原因があるとも言われています。

人柄を科学的に解明できるのであれば、人柄を育てる方法はないものでしょうか。北大 沢口教授によれば幼児期の栄養と環境が大切だと言っておられます。
栄養は、まつたけ、ごま、海草、野菜、魚、しいたけ、いもをよく与えること。環境は、多くの家族、怖い親爺、うるさい近所のおばさん、わるがき仲間にもまれて育つことが、前頭連合野を刺激し発達させるそうです。
人柄とは人の持つ基本の資質で、その上に人それぞれの優れた才能や能力が備わればと思うのは理想に過ぎることでしょうか。
心の隅の何処かに、ラムの次ぎの子こそはと思う心と同じ気持ちになって、なんだか気分が沈んできました。