魅力ある飼い主
「魅力ある飼い主」とは人間からみてではなく、飼い犬から見てはたして魅力ある飼い主とは如何なるものかと考えてみました。
犬を何年も飼っていて、今頃何と基本的なことをと思われそうですが、最近サリーといてつくづくそんなことを考えさせられました。

サリーと訓練科目の練習をしたり、ショーリードをつけて走ったりする時、どういう訳か日頃遊んでいる時のような元気がないことが気になっています。
どうも訓練やショーは、サリーの性格に合ってないのではと思うことすらあります。しかしそれは飼い主である私の都合のいい考えであって、訓練やショーをさせている飼い主が、サリーにとって面白くないからではと思ったらどうでしょう。思い当たるふしがない訳でもありません。
犬を褒めるにしても、リードするにしてもプロの訓練士やプロのハンドラーにテクニックで敵うわけはありません。しかし飼い主にはそのテクニックを上回るだけの、犬との接触の時間と愛情があるはずです。
遅ればせながら、これらを武器にして魅力ある飼い主になる努力をしてみたいと思います。

服従訓練の優れたハンドラーと犬の関係を見ると、いつも犬は嬉々としてハンドラーの方を見て行動しています。アイコンタクトをとりながら、次のコマンドを待っている犬をみると、この犬にとってハンドラーは魅力一杯な人なんだろうと思います。
訓練競技会で飼い主のハンドラーが活躍できるのは、この魅力ある飼い主であるからでしょう。
では魅力ある飼い主は、日頃からどんな接し方を犬にしているんでしょうか。是非教えてもらいたいと思いますし、私がこれから実践しようとすることも間違っていれば、是非ご指摘頂ければと思います。

考えてみると日頃の生活している状態で、人にとって都合のいい行動をしている犬を褒めることはめったにありません。逆に都合の悪い行動をしている時は叱ります。
訓練の練習をしている時ばかりは、いい時は褒めますし悪ければ叱ります。ショーの練習の時もそうです。
サリーにとって、日常の生活と練習する時と区別がつくでしょうか。
どうも魅力ある飼い主になるには、日頃の犬に対する接し方にポイントがあるのではないかと思うようになりました。

毎日の犬との生活が訓練の練習の場だと思って、命令を聞いた時だけでなく、あって欲しい行動をした時も大いに褒めてやろうと思います。
目が合った時は何がしか声を掛けてやる、自然にアイコンタクトの練習です。わざわざアイコンタクトの練習をするより、余程練習のチャンスが多いと思います。
ラムやサリーがそろそろ散歩の時間と期待して待っている時、そっけなく無視することも必要でしょう。そして思いがけない時ポッケからおやつを取り出し、大人しく待っているご褒美としてやれば、魔法のポッケを持っていると何時も私を注目してくれるでしょう。
そうすることによって魅力ある飼い主と思われると、ラムやサリーのほうから飼い主を喜ばせるための行動をとるようになるという、夢のようなこともしてくれるかも知れません。

私の時間を私が行動している時はじっとしていて、私の時間がラムやサリーに向けられた時、ラムやサリーが私に何時も注目してくれる、そんな魅力ある飼い主に私が変身しなければいけないようです。




身近な民主主義
日経のコラム「風見鶏」に米国牛の輸入問題で、こんなことが書いてありました。
「日本政府が食の安全を重視するのは当然である。米国産牛肉の安全性に問題があるのならば、なぜ米国を旅行する日本人に牛肉を食べるなと警告しないのだろう。
いっそのこと米国輸入牛肉を米国産と明示し、消費者の選択に任せるのが合理的ではないのか。消費者に選択の自由はないのだろうか。」

一般の日本人が中国や韓国、北朝鮮を信用ならない国と思うと同じような感覚で、欧米人は日本を信用ならない国と思っている人が結構いるようです。何となく分かるような気がするのです。
何故そうなのか、浅学非才な頭を巡らしてみると、どうも民主主義の成熟度が云々されているような気がします。
最近でこそ規制緩和、地域的規制を解いた特区制度なんかで官の縛りを解き、国民の自由意志に任せるような社会システムが誕生してますが、欧米諸国からみるとやっとそんな状態なのかと映るのでしょう。

真の民主化を阻害する理由を、官の規制のせいばかりにするのもいささか気が引けます。我々国民も自主性を声高に唱えながら、その実何か具合が悪くなると官の制度が不十分だと、お上が規制しないことを理由に責任を転嫁していることも、身に覚えがないとはいえません。
また今ほど社会システムの信頼が落ちている時はないでしょう。治安を守る警察組織が信頼されなくなるし、生命を守る医療システムに病んだ身を安心して任せられなくなっています。機構的な問題もあるのでしょうが、携わる人間の良心の問題に係わることが少なくありません。

一方企業のほうは、利益の為には何でもありとは言いませんが、有名な大企業が利益のために具合の悪いことを平気で隠しています。
もっとも企業の中での実態は、利益を上げない組織は潰されてしまします。たとえその企業の仕事のやり方が、幹部の無能がゆえに利益を上げられないようなお粗末な仕組みになっていてもです。
現場で動く最下位の組織はただただ利益の追求を求められます。その結果なんでもありの企業活動が、まかり通ってしまうのかもしれません。これとても、突き詰めれば経営者の良心の問題だと思います。

個人についても同じようなことが言えます。例えば愛犬家の身近な日常生活を見ても、子供達が遊ぶ公園の中でのノーリードがまかり通ったり、糞の持ち帰りもしなくって道を汚しっぱなしにしていれば、一方でそれを規制する官の動きがでるのは仕方ないことかと思います。
結局民主主義とは、各個人が公序良俗を守り自らの良心を通すことによってはじめて成り立つのではないのでしょうか。

冒頭のコラムに書かれていたことに戻りますが、米国牛の輸入の問題は米国から言われるまでも無く、もはや政治の問題だと思います。
高い牛肉を食べさせられている、いや食べることすらできないでいるのに何も異議を唱えないで静かにし座している国民、そして何も決めない政府に対し、大げさに言うと欧米諸国は日本に本当の民主主義が根付いているのだろうかと疑問に思うのでしょう。

何でも官が係わるのではなく、国民に直接選択を任せていい問題が結構あるように思います。
そのためには、個人でも、経営者や先生と言われる人達でも、その一人一人が良心に基づいた行動をすることが、真の身近な民主主義を作り出す要のように思うのですが。




反日騒動
このところの中国、韓国の対日批判は、報道を見聞きして腹が立ちます。ナショナリズムの血が騒ぐとでも言いましょうか。その割には右翼団体の街宣活動が静かです。煽る訳ではありませんが、もっとも千葉のような田舎では聞こえてこないのかもしれません。

どうしてこんなにも中国、韓国の若者が、先の戦争を体験したわけでもないのに先頭に立って対日批判をするのだろうか、不思議な気がします。むしろ過去は昔の人のこととして、政治にしろ経済にしろアジア諸国の若者世代で、欧米に負けない連合体を構築していこうという発想にならないのだろうか。
それには日本政府の過去に対する清算はあまりにも不明瞭で、日本国民のどれくらいの人がはっきり認識しているのだろうか疑問に思います。前にもこのコーナで書きましたが、私も分からない部類の一人です。
このことは後で触れるとして、もうひとつは中国、韓国の日本に関する教育内容にあるようです。新聞にでていましたが、名前を失念して残念ですが、30年来韓国と付き合いがあり研究もしてきた方が、過去のトレンドからこの先の韓国と日本の関係をこう言ってました。
「今の韓国の日本に関する教育から、若者たちがどんな考え方になっているのか、もはや過去の流れから推し量れない方向に向かうのではないか」と。明らかに今の若者と、戦争を体験してきた韓国民とは断層ができているというのです。
日本語が話せる韓国人の世代と、情報でしか知らない今の韓国人とは別の認識で付き合わないといけないようです。

中国の反日行動を欧米やアジアのマスコミはどうみているのでしょうか。実態を知る手掛かりになるんではないかと思い引用してみます。

フランスのルモンド紙
日本が第二次世界大戦中に犯した罪を否定するのを、中国人が非難するのは間違ったことではない。日本政府は1995年当時の村山首相が中国に表明した「深い反省の念」を忘れてはならない。日本は、国連の常任理事国入りを目指す今こそ、隣国の声に耳を傾けるべきだ。
だからといって中国政府のデモに対する「容認」は正当化できるものではない。中国は国内向けには「歴史」を政府に対する国民の不満をそらす道具として利用し、今や反日運動は、中国の若者が不満を発散させる唯一の手段になっている。

ドイツのハンデルス・ブラット紙
過去の占領支配に関連付けられるすべてのことに、中国国民の感情は煮えくり返っている。資生堂やソニー、トヨタへの愛着にかかわらず、若者を含めた多くの人々の間に反日感情が高まっている。過去の苦痛とともに中国の抗議行動には別の理由もある。
民主主義や人権のため、拡大する社会格差への抗議のために街を練り歩くことはできないが、反日なら可能だ。隣国への感情的抗議は、中国政府によって全く別の理由による不満のはけ口として利用された。
日本政府はもう過去を美化することを止めたほうがいい。そうすれば、中国国民の感情が利用される危険も避けられる。

イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙
日本は第二次世界大戦中の残虐な行為に中途半端な謝罪しかしてこなかったが、ドイツは欧州でのナチスの残虐行為を全面的に認めてきた。和解には被害者の許しが必要だ。欧州の人々がドイツの過去を許したようには、中国人は日本人を許せないようだ。
長い間、中国共産党は日本の戦争犯罪をじかに体験してない若者に対して、反日感情を植え付けてきた。戦後の日本の平和主義と中国への開発援助の実績を伏せたまま、日本の歴史歪曲に不満を述べてきた。
中国の歴史教科書は中国自身の指導者によって引き起こされた飢餓や流血事件、混乱に目をつぶり、日本の過去の残虐行為と再軍備の脅威にばかり焦点をあててきた。
中国は共産党体制を正当化する根拠を、社会主義イデオロギーからナショナリズムに乗り換えたようだ。これは中国の安定と東アジアの安全保障にとって危険なゲームだ。事態の沈静化に向け日本は過去を正直に認め、無条件に謝罪すべきだ。中国も和解の手をさしのべる用意が必要だ。

シンガポール紙
不快になるほど繰り返された指摘だが、日本が戦時中の暗黒の過去を認めようとしないことが問題なのだ。事実の継続的な否定は手におえない病である。それゆえ日本の首相が靖国神社を参拝するたびに中国と韓国の激しい非難を受ける。
日本政府は「遺憾」というが、真の後悔に基づく行動には見えない。日本は今すぐ過去に向かい合うべきだ、緊急性はこれまでよりもずっと高い。日本が米国との安全保障協力で中国に対抗姿勢を示したと、中国世論は硬化しており、容易にまた惨事が起こりうる。

中国政府が自国民をどう指導していこうと、それは中国のことであって日本がとやかく言う問題ではないでしょう。逆に中国や韓国は同じようなことについて、日本を非難しています。
ただ問題は、日本政府が過去のことを他国からとやかく言われないようにする責任が果たされてないことに、日本国民として憤り感じます。そんなことをいつの世代までも引きずらないで欲しいと思います。なぜこれが今の日本政府もできないんでしょうか。

いま高校で教えている世界史の授業の実態は知りませんが、私が教わった世界史は古代メソポタミア文明からはじまって、第一次世界大戦の始まる前くらいで授業は終わりました。今を生きる人間として、何で世界がこんな枠組みになっているのか肝心な現代史の授業が時間切れでなしに終わりました。
中国や韓国が歴史教科書で問題にしている尖閣諸島や竹島の領土問題を、実際の中学教育の場でどう教えているのか、教えるような時間があるのか知りたいものです。

今を生きる日本国民にとって、これから先を担う若者たちのためにも、残された問題をひとつでも片付けて先に進んでもらいたいと思います。年金に代表される国内の問題、こんどの反日騒動をひきおこした戦争責任の問題、政争にあけくれることなく真剣に日本のために仕事をして欲しいと思います。
みんなそれぞれの立場で、できる限りの努力をしているんだから。




クレーム?
ラムとサリーを連れていつものように散歩しての帰り、ちょっとしたハプニングがありました。
最後に裏の原っぱでフリーランをさせてやろうと立ち寄りました。原っぱは真中を杭で仕切られていて、いつも遊ぶ所とは違う奥の原っぱで子供達3人が野球をして遊んでいました。
ラム達はそこまでは行かないだろうと思ったのが甘かった、リードを離したとたんサリーはその子達の方へまっしぐらに突進して行きました。ボールが目当てです。

子供達にじゃれ付いて、その後転がっているボールを咥えて走り回っています。
「そのボール新しいんだから・・・」といいながら、一人の子がサリーを追っかけます。サリーは立ち止まってその子の傍に行くと、「ボール出せ」と言われてボールを放しました。
私は子供達が迷惑そうなので、サリーを呼んでその子達から離しました。あまり見かけない近くの子供達のようです。

ラムとサリーを繋いで、原っぱを出て家のほうへ帰って行きました。家までは原っぱの横の路地を回って行くのですが、しばらく行くと後ろから子供達の声がします。
気にせずに歩いていると「おじさん」と声を掛けられました。見るとさっきの子供達です。みな同じ小学校の4年生位の男の子です。
「なんだい」
「このボール、さっき犬に咥えられて切れてるんだけど」
「え〜、それはごめん、ちょっと見せて」 手にとって良くみても別に変わったところはなさそうです。いつもサリーが遊ぶ硬式仕様のソフトボールです。
「別に何ともないようだけど、どこが切れてるのかな」 その子はボールを手で回して見ながら小さな声で、
「毛がでてるんだけど」「どれ・・・」 ボールをかざしてながめてみるんですが、別に変わったところはみあたりません。
「別に何ともないようだけど、犬が咥えて傷がついたんならおじさん弁償してやるから、どこに傷がついてるのかな」
「・・・・・」
「遠慮しないで、思ってること言ってごらん。おじさん、怒ってるわけじゃないよ、傷がついたんなら弁償するから」
「犬が咥えて、汚れた・・・」
「汚れたのが気に入らないんなら洗ってきれいにしてやるよ、だけどボールで遊んでるとこれくらいは汚れるぞ」
「・・・・・」
「ほかの子達はどう思うんだ」
「・・・・・」
「ボールが切れたり、傷がついてるか君達も見てくれないかな」 そう言って真剣な顔をして私の方を見ていた一番大きな子にボールを渡して見てもらいました。
小さな声で「なんともない」
「おじさんの家はあの原っぱの所にある家だから、家に帰ってお父さんやお母さんに話して何かあるようだったらお出で。」
「知ってるよ、この犬になめられたがあるもん」 とさっきの大きな子。
「ところでこのボールは誰のかな」 すると別の子がボールが切れたと言った子を指差しています。
私はまたその子に向かって「どうなんだ、おじさんに何をしてもらいたいんだ。おじさんは子供が好きだし、野球もすきだ。怒ってるわけじゃないから、思ってることをいってごらん」
「・・・・・」
「行くよ、何かあったらお出で。じゃあ、さようなら」
「・・・・・」
家に帰ってから原っぱを覗くと、さっきの子供達はまた同じように野球をはじめていました。暗くなるまで遊んでいました。

一体あの子は何を言いたかったんだろうか。ボールが切れたように錯覚して見えたので、弁償して欲しいと言いに来たのだろうか。
良く見ると何とも無いので、ばつが悪くなって「毛が出た」とか「汚れた」とか言ったのだろうか。
自分の誤解にばつが悪くなって黙ってしまったのだろうか。その割には「おじさん」と声をかけて文句を言いに来たほどの勇気があるのなら、「ボールは何とも無かった」と言えないのだろうか。
わざわざ文句を付けにきただけに、正直なはずの小さな子だけに、・・・何ともすっきりしない終わり方が気になりました。