動物の世界では色々な目的での争いがあります。植物の世界でも動物ほど意識されませんが、生きていくための争いが見られます。所詮この地球に生を受けてたものは、争いから逃れられないのでしょうか。

生きていくための本能的な争いは別にして、人間社会で繰り広げられる争いは、時には理解しがたいものがあります。人間は歴史の中ででさまざまなものを生み出してきました。その目的は、人間が如何に快適に暮らしていくかというものであったはずです。性善説に過ぎるかもしれませんが、その生み出されたものの使う目的が、場合によって人間を不幸にしたように思います。

今地球上で行われている争いごとで理解に苦しむのは、宗教と民族に基づく争いごとではないでしょうか。これとても歴史を紐解くと、ちゃんとした理由があると納得させられるかもしれませんが、今に生きる人間が不幸になるような争いを引きずって快適に暮らせるはずもありません。次元が違うと言われればそれまででしょうが、変化、変革は将来に向かって快適な生活を作って行くためにすべきものと思います。人は社会を生きるので無く、人生を生きるのだとは言い得て妙な言葉です。

私の小さな頃に飼われていたワンちゃんは、ほんとによく喧嘩をしていました。「うちの犬は喧嘩が強い」と威張っていたおじさんも結構居たように思い出されます。散歩の時なんか、他の犬との出会い頭に、喧嘩が始まることなんかはしょっちゅうでした。

そんな意識があったもので、最初のワンちゃんを飼ったとき何ぞは、他のワンちゃんが来ると脇道にそれるか道の端に止まってやり過ごしていました。しかしそう思うのは人間の私で、ワンちゃん(最初のワンちゃんはビーグルの男の子で「サンダー」と言いました)はしっぽを振ってすれ違うワンちゃんに近づこうとするのです。喧嘩をするなんて、全く意識の外のようなしぐさには驚かされました。今でも時々ワンちゃんを連れてすれ違うとき、道を譲ってくれる方が居ます。エチケットとして大変すばらしいと思います。

犬どうし喧嘩をするのではという心配であるなら、私達が思っている以上に、争うことに対しての変革がワンちゃんの中にできていることも理解しておきたいものです。