人間社会では本音と建前を上手く使い分けて行くことによって、人と人との付き合いを円滑にすることを経験的に身につけています。しかし、何人か集まった時の会話での後で感じることは、本音と建前の会話はむなしさが残ると言うか、表面的に流れると言うか、後に残るものが少ないように思います。

会話する人と人との関係にもよるでしょうが、会話を楽しいものにするには本音の部分が多くないと、会話自身も弾まないように思います。自分のほんとの気持ち、許されるプライベートなことなどは聞く人にとって自分の経験にないことが多く、それだけ興味をそそられその逆もあって会話が弾むのでしょう。

人前で話すときなぞも、観念的なことはあまり人に感動を与えませんが、実体験を元にした話しは興味がそそられるし、話すほうもあれこれ悩まず本当の気持ちが現れ良い話しが出来るように思います。作家の井上ひさしさんがあるエッセーでこんなことを書いていたように思います。「書きたいこと、話したいことを上手く表わすためには、書きたいこと話したいことをいつも胸にしまって発酵してくるのを待つようにしている。そうしてそのことついて、どうしても書きたい、話したいという気持ちになって表わすと良いものがだせる。」日常の会話は、そんな大げさなものではありませんが、あまり本音と建前ばかりの会話は長続きしないように思います。

ラムの生活を見てても、かなり本音と建前を使い分けているように思えて面白いことがあります。多分、知らない人に対しては本音で行動しているようですが、一緒に生活している家族に対しては本音と建前を使い分けているようです。躾られたことが建前だったら旨くありませんが、躾られたことが本音になってくるとしつけも合格と言うところでしょうか。