考えてみると、人間生まれてから死ぬまで、教わらないで生活している時期と言うのはないように思います。教育と銘打って構えなくても、無意識のうちにいろいろなことを学んでいることに気が付きます。厄介なことは、そのことを意識しているかそうでないかによって、身につく度合いが違うようです。また、意識して学んだ場合のことだけを、「教育を受けた」と言っているようです。

教育の中身も、学問、知識の教育から生活していく上で必要な知識の習得まで千差万別です。一般には学問の習得を教育と言っていますが、生涯学習と言われるように学校で学ぶことばかりが教育ではなく、色々な機会と場所を見つけての教育が必要なように思います。

最近の学生と言われる年齢の者が引き起こす社会的な出来事は、いったい何に起因しているのでしょうか。被害者も、加害者も学生であれば、マスコミで取り上げられる情報は、家族からの発信より学校関係者からの発信の方が、圧倒的に多いと言うのはどういうことなのでしょうか。

人為的な事件、事故が起きた時、またなすべきことが出来なかった時、その原因を先生に教えられる教育のせいにするのは安易な見方だとされています。確かに学校であれ職場であれ、問題の原因をあてがわれる教育のせいにするのは安易な見方かも知れません。
あてがわれる教育は、学ぶ又は習得する方法を教えてくれる、教育のほんの入り口でしかないからです。自ら学ぶことの教育も入れて考えると、やはり社会で不都合と言われるような事をする輩は、自発的に行う自らの教育が出来てないからだと思います。

教育者は、我々が学ぶためのほんの手助けをしてくれる人です。家族は困った時に励ましてくれ、物理的にも精神的にも助けてくれる人達です。そして最後は、生きていくための自らの教育が必要なのではないでしょうか。どうも最近の風潮を見ていると、親にしても子にしても他人のせいにしているように思えてなりません。ましてやそれを学校教育のせいにするのは持っての他と思います。

ラムとの共生は、自ら学ぶことができないだけに、このあたりの兼ね合いが難しいところです。しかし、ワンちゃんの引き起こす問題は所詮人間の責任であると言う教育は、常々怠りなく肝に命じているつもりです。