日経のコラム春秋にこんな事が書かれていました。「・・・豊かでも父性の影が希薄なこの時代を生きる子供たちは、社会への手がかりを欠いて無重量の空間を歩む感覚を強いられているのだろうか。・・・・
あらがいがたい母親の情愛に比べれば、息子にとって父親は懐かしくも疎ましい存在である。・・・・
多かれ少なかれ、世間の息子たちも同じ感覚を父親に抱きながら、その背中から何かを受け止めて成長する。無意識のうちにその生き方の「壁」として立ちはだかる父親の後ろ姿がいまほとんど見えないのはなぜだろう。・・・・」

父親の存在感が無いと言われて随分経つように思います。事件を起こした子供の報道を見ても、母親の記事は見ますが父親の姿が見えないのはよく感じます。子供の頃父親を思ったこと、そして父親になって息子を思うことの経験をしてきた今考えると、息子も父親も嫌と言うほどお互いを意識していて、ただその接点がなかなか見出せないと言う事ではないかと思います。

そしてその接点が見いだせた時のことを思い出すと、息子の年齢が父親のことをちょっと距離を置いて客観的に見れるようになった頃からのように思います。父親は結構息子を客観的に見ているつもりで、色々なアドバイスをしてやりたいと思っていても、つい高圧的になったり受け手の息子がまだ堅い殻の中にいて聞く耳を持てないでいるうちは、なかなか接点は見つからないのではないでしょうか。その微妙な時期が、15から20才くらいの頃のように思います。

自分のことを思うと反省しきりですが、今にして思うと客観的に物事が見れる立場の父親が、この大事な時期に最大限の注意を払って子供と接触することが何よりも大切なように思います。
その時の態度はそうでなくとも、そのころ聞いた父親の一言が折に触れ心に残っていることがあります。そして、もっと話しを聞いておけば良かったと思う無念さです。そして今また、子供にそう言う思いをさせないようにすればよかったという反省です。