考えてみると相撲の番付制度は、相撲を単なるスポーツとしてみるなら不思議な制度だと思います。単なるスポーツと表現したのは、これも単なる私の偏見でありますが、子供の頃から慣れ親しんだ相撲はスポーツにない神聖さを感じていたからであります。しかし、今の相撲は残念ながらその神聖さをさっぱり感じなくなって、すっかり熱も冷めてしまいました。

プロスポーツで、あなたは強いから横綱、ちょっと弱いから大関と言う制度はあまりないのではないでしょうか。確かに幕内、十両、幕下などのリーグ分けはサッカーなどにもあります。テニスのようにランキング制度もありますが、これとても結果で順位を決めているだけで、順位によってその地位を保証されているわけではありません。

相撲にスポーツ以外の何かを求めるのは、今の世の中の仕組みや考え方からするととうてい無理な望みでしょう。その何かと言うのを探してみると、相撲社会は強烈なプロ集団、横綱(関取)の権威、横綱(関取)の人格、集団の権威と謙虚さと品格などなど日本人が遺伝子の中にもっている(であろう)儒教的な精神を、相撲社会の人達は身をもって表現してくれたように思うからです。関取に対し身の回りを世話する弟子を持つ制度も、関取という地位に対して人間的な尊敬があるからでしょう。
今でも横綱、大関に昇進する審議において、品格だとか成績以外の観点からも審議されていますが、結果を見ると実態が十分伴っているかどうかは疑問です。

子供のころを思うと、お相撲さん(力士とは余り言わなかった)は何かみんな年を取っているように思ったものです。それだけ落ち着いていたし、堂々としていました。その頃の私のごひいきは千代の山でした。
当時は「おらー三太だ」という子供向けラジオ人気番組がありましたが、その三太と共演する「三太と千代の山」なんて言う映画ができるほど子供に人気のあった横綱でした。

果たして子供の頃の相撲社会も、こうやって馬齢を重ねた目で見ると上に書いたような神聖な相撲社会であったか、横綱であったかはわかりません。
ただ、強く思う事はこれが日本人の心を身をもって表わしているモノだという何かが、今の社会でもあってもいいと思います。それが相撲だったらと思う一人です。