生まれてこの方、そしてこれから生きていく社会を考えてみると、自分がいくつかの社会に身を置いて生きていることが分かります。

学生時代までは「家庭社会」、「地域社会」で成長してきました。社会人になって、結婚して家庭を持つと、夫である男性は主として「会社社会」、「家庭社会」に身を置くことになるでしょう。妻である女性の多くは「家庭社会」、「地域社会」中心に生きていくのではないでしょうか。この時期の「家庭社会」は、学生時代までのそれとは違い、夫や妻が「家庭社会」の主人であり中心の社会だと思います。そして男は「会社社会」に別れを告げる時が来るとと、妻と共に「家庭社会」と「地域社会」で暮らすようになるのが一般的でしょう。

いずれの社会に身を置くにしろ、共通して係っている別の社会があります。それは日本人としての「国社会」と世界を意識した「地球社会」でしょう。そして最近は、私もちょっぴり首を突っ込んでいる「ネット社会」という新しい社会が誕生しました。この三つの別の社会はちょっとおいておくことにして、このところちょっと気になる「家庭社会」と「会社社会」のことについて、思いを致してみました。

今まさに、新生社会人として誕生したばかりの人達が町に溢れています。この方々が身を置く「会社社会」が、今ものすごい勢いで変わっているということです。そのことが、「家庭社会」にも少なからず影響を与えているように思います。

「会社社会」で従来と変わったことは、スピードと生き残りのための戦いでしょう。ある日の夕刊に出ていた、若い経営者を紹介する囲み記事の中だけでも、次のような言葉が散乱していました。「一流企業も三流企業もやろうとすることは一緒。問題はそれを実行できるか否か。そこで、一流と二流以下にわかれる。」「年齢も経験も関係ない。才能のある人に適切なポストを用意し企業成長の速度を上げるのが経営者の務め。」「ついていけなくて自分で身を引く社員はいても、経営者が辞めさせることはない。」「泳げない奴は沈めばいい。」こんな言葉で言われるのが、決して極端でない今の「会社社会}のように思います。ここでは残念ながら、愛だとか思いやりだとか言う言葉は、甘えにしか聞こえません。

一方今の「家庭社会」ほど、ゆっくりとした時の流れと、愛だとか思いやりの心、すさんだ気持ちを癒してくれる言葉が必要とされている時代はないのではないでしょうか。

この二つの社会を毎日往復している人達が、今のこの社会を背負って立っていると思うと、つくずく大変な時期を過ごしているのだなと思います。夫が会社から帰ってきて夕食のほんのひととき、妻が今日の出来事を話していたら、突然夫が「ところで結論はなんだ、早く言え」と言ったとしたら。

ゆったり流れる家庭の時間に、スピードに追われる会社の時間をそのまま引きずって家庭に持ち込む、言わば「家庭社会」と「会社社会」の切り替えができない症候群が蔓延してるとしたら、なんとも悲しい社会現象ではないでしょうか。

ラムはいま「家庭社会」と「地域社会」を満喫しています。いや、満喫しているものと思っています。そしてラムは、時として家庭にいながら「会社社会」から切り替えが出来ないでいる主人に対し、「家庭社会」に頭のスイッチを切り替えてくれる魔法使いのように思えるのです。あまり、このラムの魔法にはお世話にならないようにしたいと思ってはいますが。