ものを理解する、分かると言うことは人間の脳の活動の中でも最も神秘的な活動と思います。理解する、分かる対象の「もの」は、学生時代に苦労した物理や数学の「問題」であったり、課題を解決する「方法」だったり、いろいろな「現象」や「物」そのものだったりします。

数学や理科の「問題」は、解が唯一無二で分かったか分からないか、理解できたかできなかったかは明快です。正解が一つであれば、○の人は理解できているし×の人は理解できてないからです。

たとえば、どうしたら本が早く読めるようになるかという課題に対しての解は、それこそ色々な「方法」があり多分正解は唯一無二とは言えないでしょう。思いつく「方法」の数だけ解があるとすると、その「方法」を理解できたかどうかは少し曖昧になります。まだ違う「方法」があるかもしれないからです。

対象が「物」になってくると、その「物」を本当に理解しているかどうかは、先ほどの「方法」よりももっと曖昧ではないでしょうか。「物」が人間だったりしたら、分かる、理解するということがどんなに曖昧であるか実感することが多いように思います。

こう考えてくると理解しているということは、所詮自分の経験とか知識とかなにか自分固有の物差しに照らし合わせて、自分を納得させているように思います。同じ条件でお付き合いしていても理解の中身は、人によってまちまちだと言ってもあまり間違ってないように思います。

自分のことすら理解できないということは別にして、他の人を理解することは容易なことではありません。家族は自分の物差しで計る機会が他人より圧倒的に多いわけですから、良く理解しているつもりでいますが、これとても自分の「理解の物差し」で計るのですから限界があります。ものを理解する度合いは、物差しの多さと物差しで測る回数言ってみれば情報の多さということになります。愛するとか思いやるとか言う行為は、そのものを理解したから愛するとか思いやる事の他に、そのものを理解するためにもしなければならない行為のように思います。

ラムは生まれてからこの方、私達家族にずっと見守られて生きてきました。良く理解しているつもりです。情報量も十分多いように思います。ただ、残念ながら持っている物差しが果たしてこれで十分か心配です。分かったと思うと努力しなくなりそうなので、いつまでも理解できない「物」だと思って、これからも付き合いたいと考えています。