日本の8月はまさに祈りの月といえるでしょう。広島、長崎の原爆の日は、見聞きするだけですが祈らずにはおれません。そして迎える旧暦のお盆。生まれ故郷から遠く離れて暮らす家族も、お盆になると父母の元に帰り先祖の霊に手を合わせて祈る習慣は、いつまでも残したい敬虔な習慣ではないでしょうか。

東南アジアで見かける挨拶代わりに手を合わせて祈る姿を見ると、悪人のいない国ではないかと思います。それほど祈る姿は、祈る人が謙虚に見えるからでしょう。

祈る姿も、神仏にお賽銭をあげて自分の望みが叶いますようにというのは、自分の限界を知り神仏に力を借りることでそれなりに謙虚なことですが、人間の欲の深さを感じます。落し話ではないですが、十本の指を合わせ口元に持ってきて祈るからこそ叶うのであって(叶うという字は見ての通り口に十と書きます)、片手だとかお腹の前での合掌は余りご利益がないそうです。

祈りの対象も、神仏であったりおそれ敬う人であったり、感謝をする人であったりさまざまです。最近、企業の上に立つ人の奢りにより多くの人を路頭に迷わせ、また作られた製品を使って肉体的精神的苦痛を与えられる事件が発生しています。形式的であっては何もなりませんが、心から手を合わせて祈る気持ちを大切にしたいとつくづく思います。