これから書く事は必ずしもタイトルとそぐわないかもしれません。敢えて言うならば原始的な心のふれあいとでも言えるかもしれませんが、どうもいい言葉が思い付きません。
原始的な心のふれあいと言うと、テレビで見かける・・・言葉も風習も違うジャングルで暮らす原住民と都会人が、生活を共にする事によって心が通じ合い、別れの日には涙を流して離別を惜しむ・・・というふれあいがありますが、これとも違います。

下の息子のお子さんは、生まれた時から月に1、2回我が家へやってきます。私が年を取ったことと直接の養育責任が無い事もあって、その成長ぶりを客観的に観察する事ができます。
まだ2歳と数ヶ月ですが、成長過程の中で原始的な心のふれあいとでも言うような、心の通じ合うような経験をし、いたく感激した事があります。

生後数ヶ月で目が見えるようになると、動くものを目で追いかけます。その内あやすと笑うようになり、それを見てこちらもうれしくなるものです。これは極めて普通の事で、うれしくは思いますが感激とか感動とかは特に感じません。
ところがこちらから何の働きかけもしないのに、目が合うと、にこっと微笑みかけられら時の驚きと感激は今でも忘れられません。生まれて1歳と半年ぐらい経っていたと思います。
ああ、この子とも気持ちのふれあい、心のふれあいと言ったようなものができるようになったんだなという感激です。この心のふれあいのようなものは、成長するにつれ表現の方法が表情から言葉へと変わっていくのでしょう。

ラムと生活していて、同じような感激をした事があります。ラムの方から、遊ぼうよとか散歩に行こうよとか催促されると、そうかそうかと思います。何か食べ物をねだられる時には、ちょっと憎たらしくも思います。ラムからの働きかけも、このように目的がはっきりしていると別段の感慨も沸きません。
しかしラムと散歩に出かけて、特段回りに変わった事はないのですが、歩いてて時々つ、つと鼻で私の手を突っつく事があります。そして何事も無かったようにしてまた歩きつづけるのです。
ラムにとっては何か私に意思表示しているのでしょうが、あたかも目が合うと、意味も無くにこっと笑う行為に似てて、ああ、ラムと心のふれあいができているんだなと勝手に満足しています。
ラムとのこの原始的な心のふれあいが、成長した今どんな形で表わされているのか、まだ見出せないでいます。ただ散歩の時、鼻でつ、つと手を突つくことは今でもしてくれるのですが。