「一寸先は闇」とは政治家の専売特許のように言われる諺ですが、別に政治家に限ったことではなく、私達の生活も一寸先は闇と言えるのではないでしょうか。
多分私達一般人の生活環境に比べて、政治の世界は変化が激しいことを言っているのでしょう。しかしこの言葉を使っているのは大体政治家自身で、逆に一般の人は政治の世界、政治がやってくれることほど旧態依然で、変化しない世界は無いと思っているのが実感ではないでしょうか。
市場社会においていまや停滞は敗北を意味し、状況を先取りした変化、変革をしないと生き残れないと言うのが、今の日本のおかれた企業社会の現状のように思います。

今年の元旦の経済新聞を見ていると、日本(国も人も)はどうも悲観的になりすぎているのではないかという論調で書かれていました。情報量の豊かな論説者の記事なので、そういうこともあるのでしょう。
「日本は悲観的すぎる」という言葉は、二昔前にも良く言われていたように思います。この時のこの言葉から受けた印象は、日本人は謙虚すぎる、もっと自信を持って大いに精神を鼓舞し活躍したらいい、という受け取り方をして多分に納得するところがありました。
その印象からすると、今日の日本は悲観的すぎると言われると、あたりまえじゃないのかなと思うほど今の日本の実態は落ち込んでいるように思います。どうも、政治も経済も落ち込んだ状態で迎えた21世紀、2001年の元旦ぐらい、明るい気持ちを持とうと言う狙いであれば、分からないでもないような気がしますが。

一寸先は闇の社会や生活を、悲観的に生きるか楽観的に生きるかは、生き方の問題ですので言うまでもなく大いに個人の自由です。
理屈をこねて言えば、悲観的になると言うことは将来に悲観すべき事があるからで、せっかく悲観するのであればそれに対する備えをすれば、先々後悔しないで済むでしょう。楽観的に生きると言うことは、先に悲観的なことが予想されるけれども楽観視するのか、全く悲観すべき事が予想されないのどちらかでしよう。

そう考えてみると、私自身は悲観もしてないし楽観もしてない、いや正確に言うと悲観する時もあるし楽観する時もあると言う状態で毎日を送っているようです。何かをしなければと思いつつ、馬齢を重ねてきたようで反省しきりです。
ラムはその点、楽観主義を貫き通して生きていてうらやましい限りです。ただ楽観的に生きていける生活環境を作っているのは私達家族であることを思いつくと、これまた私達は楽観的には生きていけないなとも思います。
お屠蘇で麻痺した頭で考えた私の元旦の計は、所詮この程度のものでした。