「鬼は〜外、福は〜内」 今日は2001年の節分の日。お子さんの居る家では、子どもにせがまれてまた子どもの喜ぶ顔が楽しみで、豆まきをする家も結構あると思います。大人ばかりの我が家では、少し照れくささもあってここのところ豆まきはしていません。
豆まきをするお宅でもご近所の手前、つい遠慮勝ちな小声になってしまうのではないでしょうか。小さな声では住みついた鬼も出て行ってくれないのかもしれません。
豆まきという儀式をすることが、春を迎えるにあたり邪気を払うことができるんだという素朴な信心があれば、恥ずかしいことなど吹き飛んで自然に大きな声で豆まきをするのではないかと思います。

何かの宗教に入信するということは別にして、信心から出る行為や儀式が形式的になっているような気がします。その理由の一つに、信じるということに対し心の隅に危険と恐れを感じるからではないでしょうか。俗に言うのめり込んでしまうことへの恐れです。

しかし、この信じる心がないと何事も中途半端になって、行うことが成就しないことが多いのも経験的に感じます。成就しても、まぐれと思って心の満足がないように思います。
何かの希望に向かって進んで行く時も、そこに必ず成功するんだと言う信じる心がないことには熱が入りません。かといって半信半疑の状態でいる時に、良からぬたくらみを持つ人から信じることを強要され、その気になって大きな被害をこうむる事実もよく見聞きします。信じることの怖さも、こんな経験から出ているのでしょう。

永い人生の中には、それこそ勝負を賭けて信じて突き進むことがあります。その結果は所詮自己責任で処すべきことであって、他人がとやかく言うことではありません。しかし日常出てくるような、豆まきで大声を出すような信心は、心の艶として持っていてもいいように思います。
ラムも私達家族が決して裏切らないと言う信心を持っているので、これには応えてやらねばと思っています。