脳については医学的な研究も進み、生理的な現象に付いてはおおよその説明ができるようですが、心とか精神的な分野の解明は依然なぞのところが多いようです。そんな専門的なことでなくごく日常的なことで、脳の働きについ驚かされることが多く不思議に思います。

最近身近な人が不幸な事に15分近く心臓が止まり、救急措置の結果一命は取り留めましたが意識不明の状態が続きました。30代後半の方で手厚い治療の結果、最近は意識も回復し会話も少しづつできるようになりました。
その経過を見ていると、一ヶ月の間に赤ちゃん状態からいっきに4、5才くらいまで成長したような脳の回復振りです。現在懸命のリハビリを行っており、脳の働きはある程度まで回復するだろうとの明るい希望を持っています。
きのうも下の兄さんのお子さんがやって来ました。2才と4ヶ月になりますが、身体の成長以上に心の成長には驚かされます。一体脳の中がどんな成長をし、なにが発達しているんだろうと不思議に思います。もう相手の様子を伺い、相手の気持を読んで行動する事ができるようになっています。

現在の社会が蓄積している知識レベルは今後ますます増えて行くでしょうし、それに伴って仕組みや我々が使う道具はますます複雑で高級なものになっています。
生まれた時代が原始の時代か現代かによって、社会の知識レベルは計り知れない違いがあります。しかし生まれてくる人間の脳の知識レベルは常にゼロからですから、まず現在の知識レベルまで上げなければなりません。
原始と現代の知識レベルの違いは比べようもなく、原始の人間と今とでは脳の発達の度合いも計り知れない違いを感じます。新しい発明や制度の創造がその積み重ねの上になされることを思うと、脳の無限の可能性を感じます。
一方で知識レベルとは関係なさそうなところで生まれてくる心や感情は、どこで育ちどこで鍛えられてくるのでしょう。脳の神秘は深まるばかりです。

こう考えてくると、所詮人間の持って生まれてくるものに違いがあるわけではないので、世に言われる鍛え方の違いに落ち着くのでしょうか。それだけの容量が脳にはあるし、まだまだ余裕もあるのでしょう。
ただ、知識のレベルがだんだん高くなると脳の場所が窮屈になって、知識を詰めこむのに努力と忍耐をより以上に必要とするという事でしょうか。
ラムも少々遅くなったかもしれませんが、より多くの刺激と経験を与えてやればまだまだ違う能力が発揮できるのかもしれません。やはり努力と忍耐が必要なようです。