8月15日、終戦記念の日に多くの人が祈りを捧げたのではないでしょうか。あえて誰のために、何の祈りをと問われれば、日本のために戦い亡くなった人達に対し、ありがとうどうか安らかに眠ってください、そして2度とこんな悲惨な戦争が起きないように、起こさないようにとの願いを込めてと答えるでしょう。

私は戦争体験があるわけではありませんが、1941年から始まった戦争(1945年のこの日をもって戦争は終わったことになってますが、相互不可侵の約束を破って途中から参戦した旧ソ連軍は、それから何日も北方の地でわが国を攻撃しました。したがって実質の終戦の日は場所によってまちまちですが)で多くの人々が亡くなったことは、教科書や自分の回りの人やそして残された色々なメディアを通して学んできました。亡くなった人達のなかで、日本のためお国のためにと武器を取り戦地で亡くなった人たちのことを思うとき、この世紀末に起きる青少年の「切れる」事による犯罪との対比で、なんともやりきれなさを感じます。

武器を取り戦地に赴く時、それが日本のためお国のためとの思いに至るまでには、人により想像できないような曲折があったでしょうが、結果的には自己犠牲がなければ果たせない行為だと思います。今の青少年の起こす犯罪を思うと、この自己犠牲という言葉は死語になったしまったように思われます。

奇しくも世紀末の8月15日に15才の少年が、またしても近くの家人6人を襲った事件を見ると、自己中心の制御の利かない気持ちがさせた犯罪のように思います。自己犠牲を強いられた当時の青少年との比較において、何が今欠けているのか、なかなかその答えが見出せないでいます。