「それを言っちゃ−おしまいよ」。寅さんの映画にも出てくるこのせりふは、日本人の奥ゆかしさや、気遣いを賛美する思いが込められているように思います。
そして「それじゃ−言って聞かせやしょう」で開き直って意思表示をしなければ、分かってもらえないことが多くなりました。「以心伝心」は、島国社会だから通用するんだといささか最近は旗色が悪いですが、やはり人の気持ちを思いやるという点では高い精神活動をから生まれる産物だけに、大事にしたい気持ちだと思います。しかし奥ゆかしさが過ぎると、せっかくの意思も相手に通じないということも往々にしてあるようです。

車を運転する人はよく経験することと思いますが、進路変更や合流点での割り込みはあまり気持ちの良いものではありません。割りこんだ方も、割りこませてもらってありがとうという気持ちがあっても、それを伝える手段が無ければ感謝の気持ちも相手には届きません。
しかし方法が決まっているわけではありませんが、割り込んだ車が駐車ランプを点滅すると、「ああ、感謝しているんだな」と思い、割り込まれたむかつきが納まるのは不思議です。相手の意思が伝わるからでしょう。

混んだ電車で若者がゆったりと座っている所に乗り合わせることがあります。立って代わってくれとは言いませんが、詰めればゆうに一人座れるのになんの反応も示さないのには腹が立ちます。
分かって欲しいと荷物を棚に載せたりして、詰めたらどうかという催促の素振りをして見せても何の反応もありません。「ちょっと詰めてもらえませんか」と言うと、しぶしぶ面度くさそうに体をずらします。なんとなくお互い気まずい思いをすることがあります。やはり、「それを言っちゃ−おしまいよ」の気分です。

どうもそんなことを思うと、感謝の気持ちがあるときは多いに意思表示をしたら、した方もされた方も胸のつかえがとれそうです。そしてこうあって欲しいなと考える時、相手がそれと察知して気を遣ってくれると、お互い気まずい思いをしなくてすみそうです。
なかなかそんな社会はないよと言われそうですが、その社会を構成しているのも我々一人一人であることには違いありません。この世の中、ほどほどの意思表示が必要なように思います。