最近はやっている歌を聞くと、随分テンポの速い曲が多いように思います。特に若い女性の唄う歌を聞いていると、思いのままの気持ちを軽くて早い曲に乗せ、語っているような歌が人気なようです。
その点演歌や歌謡曲といわれる歌は、テンポが遅くってまどろっこしく感じられます。ちょっとジャンルは違いますが、浪曲はその最たるものかもしれません。

演歌や浪曲を聞きながら何かをしていると、歌詞が頭に入りませんのでつまらない歌のように感じます。ところが、お金をかけて見に行ったり、ラジオやテレビでじっくり歌詞や物語を聞くというと時として涙する事もあります。
語られる歌詞や言葉が乗るメロディーや節回しは、聞く人に対して言葉のかもし出す雰囲気を感じさせる効果を与えているようです。どうも演歌や浪曲は唄われる物語を聞くものであって、メロディーや節回しはそれを盛り立てる効果音と考えた方がいいようです。
日本文化の演歌や浪曲が若者に受けなくなったのも、テンポが遅く主体となる歌詞や物語をじっくり聞くことが無くなったのも原因の一つかも知れません。

本格的な落語を聞いているというと、本題の話に入る前に枕という小話がいくつもつけられます。15分位の落語だったら、5分くらい枕に取られることもあります。
枕で語られる中身は、本題の落ちを理解するための解説だったり、本題の話しを理解するための時代考証だったり、枕だけでも結構面白く聞けます。枕の役割は、本題を引きたて補うためのなくてはならない設定のようです。
これとても本題を理解し楽しむための準備であって決しておろそかにはできませんが、時代が要求するテンポからすればまどろっこしく感じることもあります。

歌や落語もその主体がしっかりしていないと、いくらメロディーや枕が良くても作品そのものはつまらないものになってしまいます。うっかりしているとどっちが主体か訳がわからなくなって、どこかの国の政府のように、取り巻きの人の言うことの方が正論で主体のようになりかねません。
ラムとの共生においても主体はやはり人間であって、ラムに振り回される生活であってはならないと思っています。