公衆道徳、最近余り見聞きしなくなった言葉ですが、公衆道徳を問題にする必要がないほど世の中が良くなったからかと言うとどうもそうでなく、公衆道徳を云々することが今の風潮にそぐわないと言うか、今更そんなことを問題にしてどうなるのかと言うような感じがしてならないのです。
その理由の一つに私達がもつ道徳上の善し悪しの基準が、老若男女によってかなり違うことにあるのではないかと思います。

道徳でいう善と悪の分かり易い判断基準である「人に迷惑を掛けない」ということを取ってみても、年齢によって随分違うのではないでしょうか。
若い人たちの判断基準は、人=他人であって他人様に直接的な迷惑を掛けなければ、何をしても許されると言う判断です。直接的なと言う意味は正に物理的な迷惑で、他人が感じる不愉快感と言うような心情的な迷惑はお構い無しと言う考え方です。
さらに最近感じることは、単に老若で考え方が違うのでなく人それぞれ道徳的善悪の基準が違うと言うことです。いや、違うように感じると言うことかもしれません。道徳的絶対悪の基準が曖昧であれば、公衆道徳を云々することが無くなるのも致し方ないでしょう。果たしてこれでいいのでしょうか。

このところ電車の中で、長椅子に座っている女性が化粧をする場面に良く遭遇します。汗かなんかで崩れた化粧を直すのでなく、すっぴんの顔に基礎化粧品とおぼしき化粧水をつけるところから始まって、口紅、アイシャドウやマスカラを塗って終える化粧一式の所作を見ることがあります。この行為は公衆道徳上当然善とは言えませんが、悪なのでしょうか。
どうも道徳上の善悪の基準が曖昧になったのは、この電車の中の化粧が道徳上の判断基準からして「悪ではない」と言うことが一般化したころから始まったように思うのです。少なくとも明治生まれの母親の世代では、きっと悪だったと思います。しかし今この行為を道徳上悪だと言えば、古い、硬い、何故、他人に迷惑をかけたわけでもあるまいにと言われるでしょう。
今の世の中が殺伐としてきて、他人の迷惑を顧みず、自分勝手になって住みずらくなったと思うのも、あながちこのことと関係なくはないと思います。

化粧という行為はやはり結果に意味があって、その過程は見せるものではないと考えるのは古いでしょうか。まつげにカールを掛けるのに口をあんぐり開けて鏡を覗きこむ光景は、大衆に見せるしぐさではないように思います。結構楽しんでるんじゃ〜ないのと言われるかもしれませんが、やはり見てて不快に思いますよ。
ラムの顔も白髪が出てきました。若々しいイエローのファンデーションで化粧でもしてやろうと思いますが、散歩に出る前に家の中で塗ってやろうね、ラム。