「切れる」だとか、「逆切れ」だとか、なかなか我慢しきれず爆発してしまうことが事件になって、新聞やテレビを賑わしています。
いわれの無い我慢をする必要はさらさらありませんが、些細な事に対する我慢が出来ず社会生活が潤いの無い砂漠のようになってしまうのは、なんとも暮らしにくいものです。
言葉の遊びではありませんが、我慢に我慢を重ねた結果堪忍袋の緒が切れることと、先にあげた最近使われる「切れる」は同じ語源でしょうが、受ける印象が随分と違います。「切れる」は我慢することが一切省略されているような気がします。なんでいとも簡単に切れてしまうようになったのでしょう。

犬をしつける時に教えられる事の一つに、課題を与えたらできるだけ犬に考えさせることをしなさいと言われます。何が「して良い事」か、何が「して悪い事」か経験的に教えることを繰り返します。そして「して良い事」を選択した場合は飼い主からほめられ、その犬にとってうれしいこと、楽しいことであることを実感させて「して良い事」を選択するように仕向けます。
ここで大事なことは、「して良い事」は飼い主から、自分以外から、社会からほめられて楽しくなり、やってよかったと思うことです。本人にそう思わせるには、かなりまわりの努力が必要です。
一方「して悪い事」は、それ自体をすることが易しいし、楽しいし、本能的に選択しやすい行為であることです。やっかいなことに、「して悪い事」はそれ自体が楽しい事なのです。
こう考えると、しつけをするということは、易きに流れることを我慢させることの訓練なような気がします。どうもここにしつけの原点があるように思います。

間もなく3才になる孫が遊びに来た時、同じような年齢の子供達が遊ぶ公園に行きました。孫でもいなければ公園で小さな子供達の遊ぶのを見ることなど無いのでしょうが、そこで些細な事ですが大変興味ある光景をみることができました。
滑り台に上がる階段で、順番を待っていた子供をそれよりちょっと大きな子供が来て、その子を押しのけ先に階段を上って行ったのです。その子は唖然としたような態度でじっと階段の方を見てましたが、しばらくしてべそをかき傍にいたお母さんの所に行って顔を押し付け、悔しそうによよと泣き出したのです。その子にとってはよほど悔しかったのでしょう。
大袈裟にいうと、社会正義のためにこのお母さんはちょっと大きな子供をつかまえて、ことの善悪しを諭し反省させることが大きな子供にとって良いのかも知れません。一方自分の子に対しての教育の面からすると・・・。
その子のお母さんが取った態度は、その子を強く抱きしめて何やら話しながら背中を軽く叩きやさしく涙を拭いてやりました。ほんの些細な事かも知れませんが、我慢することを教える現場を見たような気がしました。

ラムに食事を与える時、必ず右の前足を私達の手に乗せて食事の前のお祈りをします。そのうちラムの口からよだれがつつと流れ落ちます。可哀想に思いますが、決め事にしている以上一通りのお祈りが済むまで我慢をさせます。
別に特段の意識をしている訳ではありませんが、ほんのひとときではありますがラムは我慢を認識し、私達はそれを見てホッとしている、そんな毎日です。