老化、いずれは訪れる生理的現象ではありますが、私も老化を真剣に考える年頃になりました。いや、「年頃」とはもっと若い年代に使われる言葉であって、考える「年」になったと言うべきでしょう。それほど自分には関係ないことのように思えた老化が、いろいろなところに顔を出してきています。還暦が人生の一巡とするならば、二巡目に入ったこの年では仕方ないことかもしれません。
 「希望が無くなった時から老化は始まる」と言われますが、確かに肉体的老化と精神的老化は別な領域の現象かも知れません。今その戸ばくちに立って確実に訪れている老化にどう処していくか、あたりをきょろきょろ見まわしているような心境です。

 「健全な精神は、健全な肉体に宿る」という標語を、小学校の教室で見たことを思い出しています。 明日への希望、気力の充実はやはり健全な身体でしか持ち得ないのではないか、と言う漠然とした不安を感じます。しからば確実に進行する年齢に抵抗して、肉体的、精神的な老化を少しでも遅らせる方策を実行することを心掛けることが大事なことなのでしょう。
 
毎日のウォーキング、水泳、太極拳等など肉体的老化を防ぐレシピには事欠きません 。しかし、この運動がどの程度の老化の予防になるか何の保証も有りません。この世の中、施す対策が事態を好転することを保証するのは、科学分野を除いては無いと言っても差し支えないでしょう。科学の分野でさえ構造が複雑になって、高性能なコンピュータのシュミレーションでも予測できないことすらあります。
手をこまねいているくらいなら、考えられる対策を打って様子を見るという試行錯誤の繰り返しが、私達の暮らしている社会の現状のように思い ます。
肉体的老化防止の対策も、同じようなことが言えるのではないでしょうか。場合によっては健康に良いと思った運動が、逆に肉体を傷つけることさえあったりして慌てて止めること さえあります。今の医学で誰しも恐れる老化のひとつ痴呆の恐怖から、どうして逃れることが出来るでしょうか。肉体的老化でありながら、精神的老化現象を呈するだけに厄介極まりないように思います。

 精神的老化は肉体的老化と違って、何がしか自分で老化対策が出来そうに思うのは老化の若輩者の戯言でしょうか。痴呆という抗しがたい老化は別として、精神的老化は出来るだけ遅らせたいとの思いは誰しもの願望ではないでしょうか。
精神的老化を予防するレシピも事欠きません。しかし厄介なのは肉体的老化と違って、精神的老化は進行状況が分かり難いことです。客観的に見て老化によるボケも、本人の自覚が無いことも有り一層厄介に思えます。
医学の進歩によって、生き長らえることは出来るようになりました。しかし、誰しもが自ら人間としての尊厳を保ちながら、生き長らえるという保証は残念ながらありません。

自ら人間としての尊厳を放棄している人は別にして、人生を終わる直前まで人間として生きていたい、今この至極当たり前のことができないことに、国として社会として問題が多くあるように思います。
不幸にして交通事故の被害者になった方への扱いひとつについても、医療、補償の問題でインターネットを通して訴えている状況を見るにつけ、人間に対する何かがかけているように思えてなりません。ましてや自ら自ずと進行する老化の問題に、国や社会があてにならなければ自ら何がしかの対策を立てねばとも思います。

こう考えてくると、老化、高齢化の問題は国、社会、個人が人間を究極的にどう扱うかの問題であるように思われてきます。
さしずめラムにとって、国であり、社会であり、個人である我が家が、老化の問題をどう対処してくれるか固唾を飲んで見ていることでしょう。