裁量=自由に考えて処理すること。権限=法律上または契約によってなしうる行為の能力(範囲)。(いづれも 三省堂 広辞林)

あるプロジェクト完成させるために、企業のように組織で対応する場合と医者、弁護士、学者(学校の先生)のように個人で対応する社会の仕組みとでも言いましょうか、職業と言いましょうかが存在します。
企業が取り組むプロジェクトとは、橋や道路の建設であったり、新製品の開発であったり、ある物件の受注であったりします。医者、弁護士、学者の場合は、患者の治療であったり、ある訴訟の弁護であったり、ある研究論文の作成や学生の授業だったりします。話しを分かりやすくするために、ここでは企業の組織が持つ裁量と医者の持つ裁量について考えて見たいと思います。

法人=自然人でなく、法律上の人格を有し、権利義務の主体となり得るもの。個人=国家または社会を構成する個々別々の人。(いづれも 三省堂 広辞林)

企業の組織は法人の構成単位と考えられ、その構成単位は個人から成っていますが、社会的な権利義務の主体は個人ではなく組織にあると言えます。
一方医者は個人そのものであり、権利義務の主体は医者である個人にあると言えます。個人の医者が医療行為をするという権限は何処から生じるかというと、医師の国家試験と公的な資格の取得で与えられると考えられます。
企業の組織も医者もプロジェクトを完成、成功させるため(医者の場合は患者を治癒するため)の活動にはそれなりの裁量が与えられますが、一旦トラブルを起こしたり失敗した場合はその責任義務を負わねばなりません。そのために如何にトラブルを起こさず成功させるか、人知を尽くし、計り、協議を重ね裁量の範囲で最善を尽くします。
万が一その裁量の結果が失敗に終わった時は、企業の組織の場合は組織が(個人的には組織の長が)、医者の場合は医者個人が責任義務をとることになります。

ここで企業の組織と医者とでは裁量と責任義務の取り方に、大きな違いがあるというのが「裁量」というテーマを取り上げた理由です。
いま企業活動の社会的責任は益々重くなっており、雪印乳業の事件を例にとってもその責任ゆえに、企業の存続を危うくするような状況です。そのような事故を起こさないためにも、仕事の裁量は人知を結集し複数の英知によるデータや実績をもとに企業活動をします。それにも係らず起きた不幸な事故に対する社会的制裁は、いろいろと報道される通りです。
一方、医者の裁量と結果に対する責任義務はどうでしょう。国が認めた権限にもとづく医療行為の結果の曖昧さに、社会の多くの人が泣かされているというようなことは無いでしょうか。
先日NHKのテレビ番組で「医師の裁量」を取り上げていました。患者に対する医師の処方は医師の個人の裁量に任されるわけですが、その方法は医師によって異なるというものです。いままでは当然のように思われていましたが、この裁量の結果が助かるものも助からなかったとしたら事は重大です。医療行為の結果の責任義務の取り方が極めて曖昧なことが、最近の医療過誤の訴訟が多いことにも関係しているように思えます。
権限のあるもの、その裁量はまさに広大なものでしょう。しかし、個人の裁量は限りのあるもの、広く英知を集めてこそ、その裁量を使う権限が生きてくるのではないでしょうか。

ラムの裁量はどうか、家族はしつけをして裁量はあると思っていますが、本人はいや本犬は家族の考えている裁量を超えて活動することが多くあります。ここは一つラムと英知を絞って、ラムの裁量を教えながら生活していきたいものだと思っています。