’01年も間もなく4月、街には学生や社会人の新人が希望に溢れた顔で闊歩するようになるでしょう。ひところのようには言われなくなりましたが、今でも学生なら理系、文系の学生、社会人なら技術系、事務系の社員と言うくくりで、進路や職種を選択しそれぞれの新天地に落ち着いていくことでしょう。
最近は体育会系という分類もあるようですが、これは理系、文系とは関係なくどうも性格や体形から分類しているようです。
不況の時は就職は理系が有利だとよく言われました。日本が工業国と言われた時代はそうだったかもしれませんが、果たしていま通用するかどうか。
企業全般からすると技術系の採用人員の方が多いようですが、専門分野も職種も色々な知識を要求されるようになった今日、理系、文系と言う分類に意味があるかどうかはなはだ疑問に思います。

自分や家族の事を考えて見ると理系、文系の、どちら系人間か分けることはできそうに思います。その分類の根拠は、やはり教科の好き嫌い、それがひいては成績になって表れ自他ともに理系、文系と決めてしまうようです。
人によっては最初の選択を誤り途中で進路を変更したり、また多才のゆえに理系、文系どちらの道も極めたり、進路と職種が違って専門が変わったりする人もいるでしょう。しかしどうも人は、理系人間か文系人間かどちらかに属するように思います。
ではその違いは人間の思考過程が分かれるからかと言うと、一方で合成的・感覚的な右脳型人間と分析的・論理的な左脳型人間という分類もあったりして、訳が分からなくなりそうです。ここでは人間の何が理系か文系かは置いておくことにします。

社会生活をしていく上で、私達が係る制度や組織がブラックボックスでは困ります。
このボックスを考えたり作ったりする時にかかわる人間が、理系か文系かに偏っているとしたらバランスのとれたボックスは作れないのではないでしょうか。ましてや限られた人間で作られて、社会を動かす組織がブラックボックスになったんでは、どんな社会になっていくのか不安でたまりません。
学問や仕事をして行く上では理系、文系という分類の人間がいれば済みそうですが、どうも社会を機能させるにはもっと違った、人系とでも言うような人のことがよく分かった人間が必要なように思います。

ラムの住んでいる犬社会が、人間にとって極めて付き合いやすい世界なのは、理系、文系、人系という分類がなく、犬系というただ一つの社会だからではないかと、勝手に思ったりして一人納得してます。