「無」という言葉でインターネットを検索すると、多くの哲学や宗教のサイトに辿りつきます。
ここではそんな高邁な難しい事を言うつもりはありませんが、「有」を超越した「無」を語りたいといったら、なんだ同じような訳のわからないことを思われるかも知れません。しかし、浅学非才のいつもの独断と偏見の戯言ですから、内容は極めて日常的なことです。

意識と無意識を額面通り解釈すると、ものの道理を理解し結果を予見している状態と、道理も分からないし結果も想像できなく何も考えてない状態を指しています。例えが余り適当ではありませんが、意識した犯罪は罪が重くなり、無意識の犯罪は罪が減じられるのは、その心の持ちようから裁きが下されるからでしょう。
しかし私達の生活の中の、スポーツのような体を使う世界や、考えるという心の世界には、意識の積み重ねの上にはじめて無意識の世界が体感できるということがあります。

スポーツ選手が毎日汗を流して繰り返し繰り返し体を鍛えているのは、意識して鍛えたベストの動作が、本戦で無意識に出せるようにするためでしょう。
私も下手なゴルフをしますが、練習場では色んな事を意識して練習します。本戦(コンペ)では頭の中が真っ白になることを嫌というほど体験しているので、無意識に体が動いてくれることを期待するからです。
また、本戦で意識して動作すると、意識が強調されて結果は惨憺たるものになることも嫌というほど経験しています。しかし、上手くなりません。練習量が少ないので体が覚えてくれないことと、一つのことを覚えても、前の事を忘れて前進しないからでしょう。
悟りの境地も、意識の果ての無意識の状態を言うのでしょうが、その境地に達したことがないので語れないのが残念です。

こうして「無」という言葉を考えると、「有」に対する「無」と、「有」を昇華した「無」があって、歳を取って自分の体が無になる前にその境地を味わって見たいものだと思います。
ラムを見ていると、「有」に対する「無」の状態なのか、超越した「無」の状態なのか分からない時があります。こちらに悩みや迷いがあると、ラムは昇華した無の状態で接してくれます。きっと生まれながらにして両方を持ちあわせた、すばらしい生き物なのでしょう。