東京高裁の裁判官が国会の弾劾裁判所で判事罷免を言い渡されました。理由は児童買春禁止法違反で東京地裁から有罪判決を下されたからです。
このところ裁判官の罪が裁かれる事件が続いています。福岡高裁の裁判官が、福岡地検の次席から妻の捜査情報が提供されたとして、分限裁判を受けました。神戸地裁所長の裁判官が、痴漢の容疑で書類送検されました。国民を裁くラストマンが罪を犯して裁かれることに、生活していく上の規範の曖昧さを目の当たりにしたようで、大きな衝撃を受けました。
この場合、同じ人間だから多少魔がさすこともあるとう次元の問題ではなく、国家という絶対権力を持つ機関がこのような人間を、人を裁く裁判官として任命したことに、驚きと恐怖すら感じるからです。
ここで言う生活の規範とは、守らなくてはならない規則や法律、病に侵されたときに断定される病名や処方などをイメージしています。

アメリカは訴訟国家と言われてきました。アメリカに行った時は、絶対に「アイム ソーリー」と言ってはいけないとよく注意をされます。たとえ自分が悪くなくとも、そう言った瞬間から自分の罪を認めたことになるからです。
それに対し、日本では「ごめんなさい」 「すいません」と言うことに何の抵抗も感じなく、むしろ自分をヘリ下すことが美徳のようにさえ思われてきました。人間の善悪の判断は、言葉上の問題でなく、もっと高尚なところで判断されるものであり、するものと考えていたからだと思います。ある意味ではすばらしいことではないでしょうか。
しかし、上の記事のように、人を裁く者が高尚どころか普通の判断も持ち合わせていない時代になったかと思うと、今までの考えを変えないととんだ目に合うことになりそうです。

そういえば最近、私達が絶対の権限と信頼を寄せていた医師や警察に対する、医療過誤や事実誤認の訴えをよく見聞きします。やっと我々も自分の命と権利は、自分達で守らねばと思うようになったと考えるべきか、それともそうでもしないとわれわれの命と権利を守ってくれる生活の規範が、極めて曖昧になってしまったと考えるべきか、残念ながら後者のような気がしてなりません。

生活の規範は誰が決めるのか、所詮われわれと同じ人間が決める訳ですから、残された道は規範を決める人(たとえば裁判官、警官、医者など)を任命する時に、しっかりとした人選をしてもらうしかありません。
今回の裁判官の事件は、私達が日常生活で信頼を置いてきた裁判官や医師や警察の判断が、必ずしも正しくない、疑って掛からなければならないことを象徴していると言っても過言ではありません。
われわれの命と権利を守るためにできることは、わたしたちに下される判断が正当なものであるかどうか、疑わしきがあればその疑問が納得できるまで、判断をした相手に訴えたり確認したりして、場合によっては公の機関に訴えることが大切なように思います。小さな力でしかないかもしれませんが、この積み重ねが何かを変える方法に思えるし、自分を守る権利と思うからです。