この度一つの命を頂きました、黒ラブの女の子です。一度に6頭の命が誕生し、最後に生まれた子がやってきました。
地球規模からすれば無に等しい命でしょうが、この子達の生まれたドッグカフェ 「スプラッシー・ドッグ」の社会(このお店に来たことのある人、このお店のことを知っているなどかかわりのある人)では、それは大変な話題です。
育って当たり前、ましてすべての子に名前が付いている状況で、何かトラブルでもあったらと「スプラッシー・ドッグ」のオーナさん達(ご夫婦で経営)にしてみれば、すごいプレッシャーだったろうと思います。素敵な命を頂いて、大変感謝しております。

人の命に軽重はないといいますが、未だに続いているアフガンでの、アメリカ軍による市民誤爆を見ると、なんと命の扱いの軽さよと、報道を見聞きするたびに憤りを覚えます。
人の命をどういう立場から見るか、どの視点で考えるかによって命の重さが変わるとしたら、命に軽重はないなんてきれい事に過ぎません。
アメリカ国民も言うでしょう、ワールドトレードセンタを飛行機で自爆したテロリスト達は、そこで勤務している一人一人の命のことを考えたことがあるかと。
人の命を持て遊ぶその人達も言うでしょう、「あっしには、そこで死んでいく人達の命なんかかかわりござんせん」と。ではかかわりのある命とはどんな命なんでしょうか。

田舎からでてきて大都会で働く若者が、田舎に帰って下にもおかない扱いを受けて、大いに感激するとともにこの地球に、この日本に、私は一人ではないことを痛感するでしょう。嬉しいことがあるときも、悲しいことがある時にも近隣縁者が一堂に会し、お互いの命を確認し合った時、安心をするとともに、生きてることの意味言ってみれば命を感じるように思います。この若者が不幸にも命を落としたとしたら、かかわりをもつ人達の嘆きは想像に難くありません。
結局命とは、その命がかかわりのある人達にとってはすごく大切なものであり、かかわりのない人達にとっては命の存在は意識しない、無と同じことのように思うのが、私の俗人としての実感です。
しかし、こんな考え方は「命は尊いもの」という教えに対しては、はなはだ不謹慎極まりないもので、命はやはり絶対的に尊いものです。
そのことを忘れかけたとき、この相対的な命の尊さを思い浮かべれば、この世で何ものにも代えがたい命と思っている人達が居ることを思い浮かべれば、命を粗末にすることもなくなるだろうと思います。

犬にとって自分の命がどれほどのものか、分かるはずもありません。しかし、その命にかかわりを持った私達にとっては、もはやかけがえのない命なのです。
「命は尊いもの」という観念的な理解でなく、今まさに燃え始めた命に接した時、「命は尊い」をつくずくと実感します。そして不思議なことに、その燃え始めた新しい勢いのある命が、消えそうで勢いのなくなった命の炎を蘇らせてくれるように思います。
命をはぐくむというのは容易なことではありませんが、この困難な作業が勢いのなくなった命の炎を元気ずけてくれるのかもしれません。