昭和20年から毎年やって来る終戦の日。戦争で亡くなった方々に、どんな形であれ思いを致すこの日。今年ほどこの戦没者に対する祈りが、問題になる年はないように思います。
戦没者に対する祈りであれば、敢えて問題になる靖国神社の参拝でなくとも良かろうと思うのは、浅学非才の戯言でしょうか。

時の首相は自ら靖国参拝という問題の種をまいて、やるべきこと、考えるべきことが山積しているであろうに、このことに熟慮に熟慮を重ねる時間を割いて、結果的に何の国益にもならないという、こんな余裕は今の日本にはないように思えて仕方ありません。

靖国参拝を問題にする韓国、北朝鮮、中国の反応は、当然参拝の背景にある日本の戦争責任を問題にしているのでしょうが、今の日本にどんな戦争責任がまだ残っているのか、だれからも教えられたことはありません。このことを明確にしない限りは、靖国参拝の形だけを確立しようとしても、日本国民も近隣の国も納得はしないでしょう。

先の戦争で、日本はまだどんな戦争責任が残っているのでしょうか。このことを、日本国の責任者は国民に世界に、まず宣言すべきではないのでしょうか。その認識が日本国の中で確立されてないのであれば、それこそ国会の中で審議して日本国の認識として確立すべきでしょう。
その認識が対象の国にとってどうなのか、世界の共通の理解が得られるのか。外務省は人事問題にうつつを抜かしている時間なぞないと思うのですが。

教科書問題、靖国参拝問題、戦争で多くの犠牲者を出して嘆き悲しみ、そして今静かに敬虔な気持で恒久平和を祈る日本国民にとって、先の戦争について日本が早く他国からとやかく言われないようにしてもらいたいと願うのも、終戦の日の願いです。

[ご参考]
以下の記事は「’01.8.14 加藤紘一からのメッセージ」から一部引用
もう一つ厄介な問題があります。
いったい誰に戦争責任があったのか、まったなしに問い直さざるを得なくなることです。 しかも、今度は日本人自身の手で答えを出さなければなりません。
太平洋戦争については、国民全体で責任を負うべきだという考え方もあります。 一方、天皇に戦争責任があったという人もいるでしょう。
いずれにしても、真正面からこうした議論に冷静かつ合理的に取り組める土壌は、今の日本にはまだ醸成されていないのではないでしょうか。
私は太平洋戦争の評価はいずれ歴史が下すべきだと考えます。ただ、それにはあと、30年から40年はかかるのではないでしょうか。