まだ子供が小さな頃、子供のことで夫婦喧嘩すると決まって家内から言われたものでした。「そんなことでよく部下の教育ができますね。自分の子供の教育もできないで」と。
自分では客観的に子供を見て叱っているつもりですが、家内から言わせると、その叱り方が感情的で子供は反撥するだけだと言うのです。事実そうだったかもしれません。叱った後自分でも、もっと冷静に叱れなかったものかと反省することが多くありました。
年をとって少し血の気がすくなくなると、冷静に叱る、いや叱るのではなくてさとし教育することができるだろうと思っていますが、もって生まれた性分か、これがなかなかできなくて反省しきりです。
なんで今更反省なんかを、子供はとっくに大きくなっているのでは・・、エエ、その通りで・・・、こんどはラムとサリーに対してのことなんです。

これはラムやサリーに対する教育かなとも考えるのですが、どうもそんなきれいごとではなく、日常一緒に生活していてつい人間にとって、いや私にとって、気に障ることがあると感情的にただ叱っているだけのことではないかと思います。
どんな状況が気に障るのか書き連ねるといいのですが、客観的に見るとそして冷静になると、何でこんなことに怒るのということばかりで、ますます自虚的になってしまうので具体的に書くのはよします。
が、どうもその行為がラムやサリーの健康を損ねる恐れがあることや、何度制止してもその行為を止めないとか、見るからにわざとその行為を続けているように思えるような場合、こらえきれず怒りが爆発して大声を出したり体罰を加えたりしているようです。

しつけは決して叱って教えないように、まして体罰なぞとんでもないことで、ただただ褒めて教えなさいと言われます。いかに私の性分とはいえ、しつけをする時はできるだけ大袈裟に褒めて教えるようにしています。今からしつけをするんだという心の準備ができているので、意識して行動することができるのでしょう。
しかし日常生活でラムとサリーと一緒にいて、この子達が意に添わない行動をすると、私の本性が出てしまい、考えるまもなく感情的に叱ってしまいます。
心配なことは、こんな飼い主と一緒に生活すると、どんな性格の犬になるだろうということです。そんな心配は、成長した自分の息子達を見れば分かるだろうと言われそうですが、人間の場合は複雑な要件が重なるようで、ここでは置いておくことにします。

犬のしつけは、しつける人間と犬との関係でうまく行くかどうか決まると言われます。その点で、私は犬を飼うのに相応しいかどうか、今更のように不安で自信がありません。
なんで今更そんなことを心配するようになったかというと、ラムの時はあまり感じなかった叱った後の反応が、サリーの場合いろいろな形で態度に出てくるのです。ある時はひっくり返って全くの服従の姿勢をし、ある時は少し遠ざかってこちらの様子を上目ずかいで伺い、ある時は恐れをなしてのそっと逃げて行く。一番驚かされるのは、ラムを叱っていると私を慰めるように、もうその位でいいじゃないのと言うように私の傍に寄ってくるのです。何か叱っているこちらが見透かされているような気がします。
そんな態度を見、冷静になってくると、別にラムやサリーは悪気があってやったことではないんだからと思い直して、感情的に叱ったことが恥かしくなります。そしてラムやサリーに、もうそんな悪戯をするんじゃないよと言いながら、ほっぺを引っ張って頭を撫でてやると、こちらの気も休まります。そんなことなら、興奮して叱らなければいいものをと思いますがなかなかできません。
サリーにそんな態度をとるような気持にさせることが、ラムやサリーにどんな影響を与えるか、また与えてきたかが心配です。ある面ではそんな飼主のもとで育ち生活してるから、その家庭の雰囲気をもった犬になるんだから、それはそれでいいではないかとも思います。

一方、ラムやサリーはどうかというと、叱られている時は、それこそこちらがしまったと思う位しおらしい態度をしてますが、私が勝手にそう思っている、ほっぺを引っ張って、頭を撫でてやる和解が成立すると、もとのラムやサリーに戻ってくれるので内心ホッとします。そしてまた、私の気に障る悪さをするのです・・・。
氏と育ち、犬の場合どうこの二つが絡んでくるのか私には分かりません。人間にも同じことが言えるのでしょうが、人権と尊厳を持つ人間の場合はこの議論はタブーです。
こんな飼主と6年間一緒に生活していて、性格もいいし気性もやさしいラムを見ていると、育ちの影響は大したことはないのかなと思います。しつけは訓練で養われますが、性格や気性は生活環境と思っていましたが、私の思い違いかもしれません。やはり氏でしょうか。
こんなことを考えるのも、ラム一人では感じなかったことで、ラムとサリーという二人がいるようになったからかもしれません。