’05.2.16

日経のコラム「風見鶏」に米国牛の輸入問題で、こんなことが書いてありました。
「日本政府が食の安全を重視するのは当然である。米国産牛肉の安全性に問題があるのならば、なぜ米国を旅行する日本人に牛肉を食べるなと警告しないのだろう。
いっそのこと米国輸入牛肉を米国産と明示し、消費者の選択に任せるのが合理的ではないのか。消費者に選択の自由はないのだろうか。」

一般の日本人が中国や韓国、北朝鮮を信用ならない国と思うと同じような感覚で、欧米人は日本を信用ならない国と思っている人が結構いるようです。何となく分かるような気がするのです。
何故そうなのか、浅学非才な頭を巡らしてみると、どうも民主主義の成熟度が云々されているような気がします。
最近でこそ規制緩和、地域的規制を解いた特区制度なんかで官の縛りを解き、国民の自由意志に任せるような社会システムが誕生してますが、欧米諸国からみるとやっとそんな状態なのかと映るのでしょう。

真の民主化を阻害する理由を、官の規制のせいばかりにするのもいささか気が引けます。我々国民も自主性を声高に唱えながら、その実何か具合が悪くなると官の制度が不十分だと、お上が規制しないことを理由に責任を転嫁していることも、身に覚えがないとはいえません。
また今ほど社会システムの信頼が落ちている時はないでしょう。治安を守る警察組織が信頼されなくなるし、生命を守る医療システムに病んだ身を安心して任せられなくなっています。機構的な問題もあるのでしょうが、携わる人間の良心の問題に係わることが少なくありません。

一方企業のほうは、利益の為には何でもありとは言いませんが、有名な大企業が利益のために具合の悪いことを平気で隠しています。
もっとも企業の中での実態は、利益を上げない組織は潰されてしまします。たとえその企業の仕事のやり方が、幹部の無能がゆえに利益を上げられないようなお粗末な仕組みになっていてもです。
現場で動く最下位の組織はただただ利益の追求を求められます。その結果なんでもありの企業活動が、まかり通ってしまうのかもしれません。これとても、突き詰めれば経営者の良心の問題だと思います。

個人についても同じようなことが言えます。例えば愛犬家の身近な日常生活を見ても、子供達が遊ぶ公園の中でのノーリードがまかり通ったり、糞の持ち帰りもしなくって道を汚しっぱなしにしていれば、一方でそれを規制する官の動きがでるのは仕方ないことかと思います。
結局民主主義とは、各個人が公序良俗を守り自らの良心を通すことによってはじめて成り立つのではないのでしょうか。

冒頭のコラムに書かれていたことに戻りますが、米国牛の輸入の問題は米国から言われるまでも無く、もはや政治の問題だと思います。
高い牛肉を食べさせられている、いや食べることすらできないでいるのに何も異議を唱えないで静かにし座している国民、そして何も決めない政府に対し、大げさに言うと欧米諸国は日本に本当の民主主義が根付いているのだろうかと疑問に思うのでしょう。

何でも官が係わるのではなく、国民に直接選択を任せていい問題が結構あるように思います。
そのためには、個人でも、経営者や先生と言われる人達でも、その一人一人が良心に基づいた行動をすることが、真の身近な民主主義を作り出す要のように思うのですが。