’05.6.8

二子山親方が亡くなった。若すぎる死を惜しむ相撲ファンは多いことでしょう。私もその一人です。
数日続いた二子山親方に関する報道もやっと収まって、相変わらず報道のねたにされているのが横綱まで上り詰めた息子二人の確執です。
一連の報道をテレビで見ていて、家族ってなんだろうと考えてしまいました。日本を代表する相撲界に身を置く家族ですから、日本国民の見本になるような家族であって欲しいと思うのはばかげた戯言でしょうか。
そうであれば相撲が格式ばった儀式やしきたりを重んじ、国を代表する国技とか言ってもてはやすのはやめたらいいと思うのですが。

それはさておいて、二子山親方の元奥方、若貴兄弟のおかみさんが、涙ながらに話していた貴乃花の泣かないことについて考えさせられることがありました。
貴乃花は親父である二子山親方の言い付けを頑なに守って、泣かないことを今まで実行してきたというのです。
親父が死んではじめてその禁を破ってしまったと、本人も報道陣を前に語っていました。反対におにいちゃんの元若乃花は涙もろくて、そんなこともこの兄弟はまるっきり違っていたようです。

泣くことについて、作家の五木寛之さんが次のようなことを語っています。
「今の日本人は心が乾いている。心が乾いてくると命まで軽くなって、自殺者が増えてくる。では、なぜ日本人の心がかわいてきたのか。
戦前の建物は大量の水をふんだんに使う建築方法がとられていた。ところが戦後は壁土はベニア板にクロスを張って、一滴の水も使わないで一軒の家が建つようになった。
今の日本人はそういう一滴の水も使わないで出来上がった空間の中で暮らし、子供を育て、老後を過ごすようになったからだ。
言葉を変えて言えば、戦後の日本全体の意識が湿式から乾式に大変換した。戦前の、あまりにも湿度が高く封建的な主従関係とか、義理人情とか湿潤な家族制度の中で、たくさんの人が辛い思いをしてきた。
そういうことへの批判とか反省から戦後は、合理化と個人主義という乾いた社会を目指して日本中が営々と努力した結果、見事に乾燥しきった砂漠のような社会と心を作り上げてきたのではないか。そんな乾いた心に水を注ぐのは情操の情ではないだろうか。
愛でなくて愛情が大事。愛と情の両方があって初めて一体の人間ができる。友がたいせつなのではなくて友情があるかどうか。熱があるだけでははた迷惑で、熱情がなければならない。
情報社会の本当の情報とは、人間の心をコミュニケートすることだと思う。今こそ日本は、本当の意味での情報社会にならなければいけない。
悲しむとか泣くとかいうことを戦後は、みっともないと避けてきた。ギリシャの悲劇でいうカタルシスのように涙で魂を浄化する。やたらべたべたするというのではなくて、正しく悲泣する心というものをもう一度取り戻すことが大事だ。親鸞も悲泣せよと教えている。」

横綱まで張って親方になった貴乃花は、相撲で強くなることだけを目指して精進をし人間を磨くことを忘れてきたのでしょうか。
人間の何たるかの教えを請う事もなく、またこれからも教えられることも無く、ただただゴシップ記事を賑わすだけであれば、日本の国技大相撲は単に勝ち負けを競う格闘技でしかなくなるでしょう。
最近の大相撲は、そんな感がしなくもありません。