’05.9.3

「日本」と「戦争」を語り考える8月も終わり、そろそろ秋風の立つ頃になってやっと私の現代史の勉強も終わりそうです。
タイトルに引かれて買った文庫本ですが、睡魔がすぐ襲ってくるこの頃ではなかなか読みきれません。はしょってはしょってやっと閉じた本の名前は「国破れてマッカーサー」(西 鋭夫著 中公文庫)。タイトルの由来らしきものが本の「おわりに」に書かれています。
「国破れて、山河在り」は、誇り高き敗者が戦乱で壊された夢の跡に立ち、歌った希望の詩だ。歴史に夢を生かすために、夢に歴史をもたせるために、我々が自分の手で「占領の呪縛」の鎖を断ち切らねば、脈々と絶えることなき文化、世界に輝く文化を育んできた美しい日本の山河が泣く。

筆者は、私と同じ太平洋戦争開戦の年に生まれています。敗戦によって日本は180度変わったと言われますが、実際のところ何がどう変わったのか私には実感がありません。
なぜいまだもって、卒業式に国歌を歌うとか歌わないとか問題にすることもいまいち理解できません。
今でこそ歴史認識とか教科書問題とか騒がれることを理解しようとしますが、一体私はこの日本という国をどう理解するように教えられたのでしょうか。戦前を知らない私のような者が戦争でどう違ったのかを知るには、同じ年代の筆者が膨大な資料をもと著したこの本は、そのことを理解する格好な機会を与えてくれたように思います。
私の知る今の日本は、正に終戦と共に始まったのです。そのことをこの本の「おわりに」は端的に教えてくれています。

日本人は勇敢だった。蛮勇かもしれない時もあったが、絶えず信念を持っていた。信じきれるものを持っていた。それが日本国民の、世界に有名な、強靭な精神力の源となっていた。食糧も弾薬も尽き、手向かえば死ぬと解っていながらも闘った日本兵。降参もせず、次から次へと玉砕する日本人。
「天皇制、軍国主義の犠牲」だけでは、説明のつかない民族の誇りのため、民族の存続のため、父母のため、夫や妻や子供のため、恋人のため、というイデオロギーを越えた一個人の「命の生きざま」も、これらの「死」に秘められているのではなかろうか。
その壮絶な戦いで、国のために死んでいった日本人を単なる「犠牲者」として片付けるのは、無礼である。非礼である。
戦没者たちを「犠牲者」として憐れむのは、戦後日本でアメリカの「平和洗脳教育」を受けた者たち、またアメリカの片棒を担いで「日本の平和のために」と言っている偽善者たちが持っている優越感以外のなにものでもない。憐れむ前に、戦死していった人たちに、鎮魂の念と感謝の思いを持て。
日本という「国」が悪で、日本国民は「無実の、いや無知の犠牲者」だという発想は、マッカーサーが仕組んだものだ。東京裁判も、この発想で進行した。
「国」が悪いとする考えは、日本国民が「国」を愛さないようにするためには、実に巧妙で、効果的な策略であった。これが、マッカーサーの「日本洗脳」だ。
このからくりにはめられ、はめられた状態を戦後民主主義と崇め、国歌、国旗を「国の悪の象徴」として否定し、憲法九条を「平和の証」と奉っている多数の有識者といわれている人たちは、「日本潰し」を企て、実行したアメリカの手先か。
戦後日本でマルクス・共産主義という「神」を崇めている教師達は、ソ連と中国の工作員であるかのように振る舞い、「日本という国が悪い」と若い世代に教え込み、戦没者を「犠牲者」と呼ぶ。
征服者マッカーサーは、勇猛な日本国民を弱くしなければ、アメリカの国家安全を脅かされる、と恐怖の念に駆られている。弱民化する最良の武器は「教育」である。
「忠誠」「愛国」「恩」「義務」「責任」「道徳」「躾」という日本国民の「絆」となるべきものさえも、それらは凶暴な「軍国国家主義」を美化するものと疑われ、ズタズタにされ、日本国は内側から破壊されていった。
日本人は、「国」という考えを持ってはならない、日本人は誇れるモノを持っていないので、誇りをもってはならない、「国」とか「誇り」という考えそのものが、戦争を始める悪いウイルス菌であると教育された。
この恐るべき、かつ巧妙な洗脳には「平和教育」という、誰も反対できないような美しい名札が付けられていた。現在でも、「平和教育」という漢字が独善面をして日本中の学校で横行している。
この独善が、憲法九条となり、日本のアメリカ依存を永久化しつつある。第九条は、日本国民の「愛国心」「国を護る義務・責任」を殺すために作られた罠だ。
日本の男達が、自分達の妻、子供、父母、兄弟、姉妹、恋人を護らなくてもよい、いや護ることが戦争であると定めたのが、第九条。
日本の存続にとって危険極まりない第九条の枷は、アメリカにとって、「太平洋はアメリカの池」「日本はアメリカのモノ」という事実を確立したマッカーサーの偉大な業績の証である。「自衛」を放棄する国が、この世界に存在するとは・・・。
日本の「伝家の宝刀」とは、日本人の「誇り」と「勇気」だ。今、憲法第九条の下に埋葬されているあの誇りだ。一個人にとっても、国家にとっても、誇りほど強力な武器はない。
日本人の弱い精神状態の根源は、心の中に、強い信念、信じられるモノ、を待たないからだ。いかに精神的な虐待を受けても、怒り狂うような、はしたないことはせず、ただ右往左往して、誰かに好かれようとする日本。
日本国民は己の歩む道も見出せないまま、己の夢もロマンもなく、世界を牛耳るアメリカの国益の餌食となり、利用され、感謝も尊敬もされず、アメリカの極東の砦として、終焉を迎えるのだろうか。

たまたま今日のNHKテレビで、ルバング島から帰還した元日本兵小野田さんが自らの人生を語っていました。日本民族のため、勇気と責任をもって戦って、帰還した日本には自分の居場所がなく、やむなくブラジルに移民しいまは立派に成功して暮らしている姿が映っていました。偶然にも戦前の日本男子の姿を見る思いがしました。

今まさに衆議院議員選挙の真っ只中、戦後60年の節目の年、明日の日本をどうするのかが問われている選挙という割には、そのことが余り争点にはなっていません。
日本国のなかの、自民党のコップの中の争いが争点ならば、世界は所詮日本はそんな国とまた見下してしまうのでしょうか。