’06.6.10

 半藤一利著「昭和史」の続編である「戦後編」が出たので読みました。前の本を読んでから、丁度一年が経過します。
前編は年号が昭和に変わるまでの富国強兵の日本と、昭和になって軍部の強行により日本が太平洋戦争に突入するいきさつが書かれています。「戦後編」はまさに敗戦国日本がどう復興をとげていったか、そしてその時代に起きたことが今の日本にどう影響を残しているか、終戦の日から昭和の時代が終わるまでを、またまた前編同様分かりやすい口調(この本は口述を本に編纂したもの)で解説しています。
いつも思うことですが、高校の日本史の勉強がこのあたりの歴史から習い、歴史に興味をもったところで日本史を遡って教えられれば、身に付く日本史の勉強になるのではと思います。

敗戦後のスタートは何といっても、マッカーサーとGHQの日本改造でしょう。今の時代に取り上げられている天皇制の問題、憲法改正の問題もこの時期にその端緒があるように思います。
昭和26年4月、マッカーサーが日本を去るにあたり、A新聞の社説にはこんな風に書いていたとあります。
「日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ導いてくれたのがマッカーサー元帥であった。
子供の成長を喜ぶように、きのうまで敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励し続けてくれたのもマッカーサー元帥であった。云々」
当時はマッカーサー神社や銅像を作ろうという計画まであったようですが、帰国後のマッカーサーの発言「日本人12歳説」の誤解から、マッカーサーはとんでもない奴だとういうことで、一気に人気が落ちたようです。
マッカーサーの功罪はいろいろいわれますが、日本国民の心情の良いも悪いもを理解して、強引に平和国家、民主主義国家を作らせたことでしょう。
一方今の世界で、「愛国心」を教育要綱に入れることを問題にする国があるとしたら、日本をおいてはないのではないかと思います。国民に愛すべき「日本」を忘れさせようとしたのも、マッカーサーの仕事でした。

過般、阪妻の長男田村高広の追悼映画「泥の河」を見ました。昭和31年ころの大阪の庶民の生活が描かれていました。
引揚者の貧しい生活と、朝鮮戦争で潤った「もはや戦後ではない」といわれる世相が、モノクロの映像を通してよく分かります。
昭和の63年間の50年近くを過ごしてきた私にとっては、昭和史は自分の生きてきた時代の歴史でもあります。出来事の筋道が分かってくると、見えなかった背景が見えてきて、なるほどと改めてその時代のことが理解できるのも、歴史を学ぶものの楽しみだと思います。

著者は以下の言葉でこの本を締めくくっています。
今の日本に必要なものは何か。一つには、無私になれるか。マジメさを取り戻せるか。日本人皆が私を捨てて、もう一度国を新しく作るために努力と知恵を絞ることができるか。その覚悟が固められるか。
二つめは、小さな箱から出る勇気。自分達の組織だけを守るとか、組織の論理や習慣に従うとか、小さなところでいばっているのではなく、そこから出ていく勇気があるか。
三つめは、大局的な展望能力。ものごとを世界的に、地球規模で展望する力があるか。そのためにも大いに勉強することが大事です。
四つめに、他人様に頼らないで、世界に通用する知識や情報を持てるか。
さらに言えば五つめは、「君は功をなせ、われは大事を成す」という悠然たる風格をもつことができるか。 
現在日本にたりないのはそういったものであって、決して軍事力ではない。

そしてあとがきの最後に
戦前の昭和史はまさしく政治、いや軍事が人間をいかに強引に動かしたかの物語であった。戦後の昭和はそれから脱却し、いかに私たちが自主的に動こうとしてきたかの物語である。
しかし、これからの日本にまた、むりに人間を動かさねば・・・という時代がくるかもしれない。そんな予感がする。

歴史は何のために学ぶかといえば、先人の同じ愚を繰り返さないよう知恵を出し合って、この国を国民が幸せになる方向へ歩むためだと思います。
このままの状態では、日本はまたとんでもない方向へ向かうとでも言うのでしょか。平和を信奉する日本、戦争を前提とした準備だけは再びするようなことのないよう、今の時代を動かしている我々自身が行動せねばと思います。