’06.9.6

ショッキングなタイトルですいません。8月18日付け日経のコラムに、作家坂東眞砂子氏が寄稿したエッセー「子猫殺し」が話題になっているものですから、ついそのタイトルをもじってつけてみました。
話題の中身はご想像の通り、「生命軽視」「不快」という抗議のメールや電話が、新聞社によせられているそうです。

坂東氏のエッセーの中味は、タヒチ島に住む筆者が、自分の飼い猫が産んだばかりの子猫を空き地に捨てて死なせたこと記しながら、 生き物にとっての「生」の意味を問う内容です。
獣にとって「生」とは、人間の干渉なく自然の中でいきることだという視点から、タヒチ島の環境の中で避妊手術を選ばなかった理由を まず述べています。
そして筆者は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、その結果生まれてきた子猫を社会に対する責任として、空き地に 捨てて死なせてしまう選択をしました。
もちろんエッセーの最後に、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことであると結んでいます。

著名な方の批判も結構あって、そもそも猫は獣ではない。放し飼いにすれば子猫が繁殖するのは当然。そんなことも分からない人は そもそもペットを飼うべきでない。
ただ批判を承知で公表したのは、筆者なりの懺悔かもしれないとはねこの博物館館長。

またある小説家は、言いたいことは理解できる。筆者は文明社会のはらむ偽善性を指摘しようとしているのではないか。
世の中には様々な 立場があり、違いがあるからこそ世界は生きるに値する、ということを伝えるのが小説家の仕事だ。
筆者はこうしたメッセージを読者に正確に受け取ってもらう工夫がもう少しあってもよかったと思う。エッセーの中味ではなく、文章技術の問題かもしれない。

またある大学教授は、筆者の「子猫殺し」の問いかけが、生と死を巡る社会のあり方を再考するきっかけになればと思う。
現代社会の快適な生活が、実は無数の動物の死によって支えられていることを、もっと意識的であるべきだ。
そのことに目をつぶったままでは、いくら「子猫殺し」を 批判しても本質的な議論にならない。


今また、サリーの子犬の繁殖について悩んでいます。
またというのは、先々回のサリーのヒートの時繁殖を決心し挑戦しました。結果は 人工交配までしましたが、神様は微笑んではくれませんでした。
私は、ブリーダーでない一般の愛犬家が繁殖をすることはいろいろなリスクを考え、すべての条件がクリアーできても慎重でなくてはならないと思って います。
過去に一度決心した繁殖をまた悩むのはおかしな話ですが、またそのハードルを越える時期を迎えると、同じような慎重の虫が顔をだすのです。

そんな気持ちを押し流すのは、どなたかが書いておられましたが「義理とこんにゃくと恩の大津波」だったとはよく言ったものです。
先回の繁殖の決心は、 自分でもサリーの繁殖に心傾いていた時、この大津波が私の心をさらって行ってくれました。
そんなことを言ったらなんと主体性のないことかとお叱りを受けるかもしれませんが、後になって考えるとそれが正直な気持ちです。

人間として自分の死生観をいまだ持てないでいる私ですが、愛犬の死生観については、飼い主である人間中心で考えるべきだと思っています。
たとえ子犬の繁殖が上のエッセーにあるようなその母犬の「生」の充実であるにしても、繁殖の判断は飼い主の自主的な判断であるべきだと 思います。

私は少ない経験ではありますがドッグショーに参加して感じたことは、繁殖はプロであるブリーダーの英知と経験を生かした仕事であるということでした。
一般愛犬家の熟慮の上の繁殖は「子犬殺し」のあるはずもありませんが、ドッグショーの参加で得たことは、その後の生かされた犬のことを考える必要があるということでした。

それは、生かされた犬の「生」の充実を感じる飼い主の感情とは別の、真摯なブリーダーが常に念頭において悩んでおられる犬世界のことです。
そのことを考えると一般愛犬家は安易な繁殖はすべきでないという今回のハードルは、今まで以上に高いものになりそうです。