’06.9.12

人は生まれて墓石に入るまでに、いろいろな集団(社会)に身を置いています。
前にも書いたことがありますが、先ず生まれて暫くは両親の庇護のもと、親の家庭社会に身をおきます。次いで経験するのが学校社会、会社社会そして独立しての自分の家庭社会。
定年後に意識するのは、近所となりの地域社会でしょう。最近はネット社会なるものもあって、人との係りは多岐に亘り複雑になってきました。

そんな中最近気になることは、このどこの社会にも身を置かない、いや身を置けない若者が多いことです。
若者だけではない、テレビ新聞を見ても話題のない日がないほどよく起きる子の親殺し、親の子殺しは身を置く社会の何かに欠陥があるとしか思えません。
自分がその社会の一員であるという実感があれば、すくなくとも社会を乱すような行動は出てこないように思います。
社会の一員と意識する要因は何か、私は個々の人が意識する背後霊ではないかと思っています。

お遊びに背後霊を見てもらったことがあります。その時言われたのは、私の背後霊はイヌだそうです。
どうぞご心配なく、私は死後の世界や霊について語ろうとは思っているのではありませんし、そういうことを信じてもいません。
私が言う背後霊とは、この世に生きて身を置くその時々の社会には、必ず「自分を見ていてくれている人」がいるということです。これは私の信念なので、そういう意味では背後霊を信じることと同じなのかもしれませんが。

必ず自分を見ていてくれている人がいると思ったのは、私が会社社会に身を置いていた頃でした。今から思うと本当はそんな人はいなくって、日々の仕事が辛くって自分でそう思って慰めていただけかもしれません。
同僚と一杯飲んだ時なぞは、盛んにそんな話をして明日の英気を養っていたことを思い出します。
誰のために、何のためにこんなに苦労しなくてはならないかと弱気になった時、きっとそんなお前を見てくれてる人がいると思うと救われます。
そんな自分の働き振りを見てくれている人は、身近な上司というよりも、間接的に見守ってくれている人のような気がします。場合によっては外部のお客様だったり。いくつかの社会に身を置いてみても、そんな背後霊を感じたのは会社社会の時だけです。

考えてみると、親の家庭社会に身を置く時は、間違いなく両親が背後霊です。それがそうでない時、子の親殺しや親の子殺しのような事件が起きるのでしょう。
学校社会では先生です。これは自分を見てくれて評価までしてくれるので、背後霊としては結構いやな霊です。
自分の家庭社会の背後霊は、夫は妻であり、妻は夫であると思います。お互い尽くしても、なかなか背後霊は応えてくれませんし反応もしてくれません。
お互い平穏で暮らしている時は、それでいいのではないでしょうか。背後霊に何かを期待すると、碌なことはありません。
地域社会での背後霊は、地域の人からの感謝の気持ちです。この背後霊もなかなか見えませんが、近所付き合いが上手くいっているということは、この背後霊のおかげだと思います。
地域社会では、背後霊を意識しての行動は慎まなければなりません。これほど嫌味な人に思えることはないからです。そのことを背後霊は決して語ろうとはしませんので、よほど注意しなくてはなりません。

死んで後のことは私もまだよく分かりません。しかし、現世に生きている限りは「天知る、地知る、我知る」の他に、きっと「自分を見てくれている人」がいると信じて生きてゆきたいものです。
真っ赤に燃えた太陽が去って、涼しい風が渡ってくるとちょっぴり自分のことを考え、そして弱気の虫が体中を這って回ります。
きっと「お前のことを見てくれている人」がいる、これが背後霊といわれるものであれば、それを信じることも捨てたものではありません。