’06.10.4

小泉首相から安部新首相に代わった。どうも今度の首相は抽象的なものの言い方が多くって具体的に何をするのかいまいち分からない。
ただやたらと安部首相を支えるチームを作っている。官僚の向こうを張って、官邸の発言力を強めようとしているようだ。

小泉前首相もそうだが、こんどの安部首相は昭和29年生まれだから、戦前のことも戦後の占領も経験的にその時代のことを知る由もない。
その経験のない時に出来上がった教育基本法や憲法を、新しい感覚で現代から未来に通用する新しいものに変えようとしている。難しい作業だが、曲げて解釈したり合法かどうか無毛な議論をすることもなく、現代にマッチするものなら頑張って作り直して欲しいと思う。

戦後作られたいろいろな制度は、敗戦に打ちひしがれて考えることもできなかった国民に代わって、天下国家を論じる一握りの官僚の力でできあがったものである。今こんな官僚主導の悪弊を取っ払い、国民主導、内閣主導に舵を切ろうとしている時ではないだろうか。
国会議員も、戦後の押し付けられた憲法や制度を必死で守ろうとする旧守の年寄りも少なくなって、戦後派の時代だ。現代感覚で新しい憲法、新しい制度を必死で作ってもらいたい。

北 康利の「白洲次郎 占領を背負った男」を読んだ。白洲次郎本人が、雑誌へ投稿した記事をまとめた「プリンシプルのない日本」という文庫本も一緒に読んだ。
今の日本の憲法や制度は、日本を占領していたアメリカGHQに押し付けられたものだ。そのGHQと果敢に立ち向かった男白洲次郎を紹介している。白洲次郎の投稿記事にこんな一文がある。

日本語でいう「筋を通す」というのは、ややこのプリンシプル基準に似ているらしいが、筋を通したとかいってやんや喝采しているのは馬鹿げているとしか考えられない。
あたり前のことをしてそれがさも希少であるように書きたてられるのは、平常行動にプリンシプルがないとの証明としか受け取れない。
何でもかんでも一つのことを固執しろというのではない。妥協もいいだろうし、また必要な時も往々ある。しかしプリンシプルのない妥協は妥協ではなくて、一時しのぎのごまかしに過ぎないのだと考える。
日本人と議論していると、その議論のプリンシプルはどこにあるのかわからなくなることがしばしばある。それは私の理解力の低さだけではないらしい。こういう議論をいくらしても西洋人はピンとこないだろう。

ポツダム宣言を受諾し、サンフランシスコ講和条約が成立して独立国日本が再生されるまでの占領下時代、日本人としてこのプリンシプルをもってGHQに対峙した男がいただけでも痛快なことだ。
講和条約締結をもって占領に係わる白洲次郎の仕事は終わったが、その時白洲は「今から本当の日本再生が始まる、いや始めなければならない」といった。残念ながらその思いは、憲法や制度面から見ると今も成し遂げられてない。

小泉内閣がその突破口を開いたとするならば、安部新内閣はさらに踏み込んで再生日本の構築に大いに邁進してもらいたいと期待する。
「美しい国、日本」は、戦前の活気ある明治から昭和初期の日本に再生することと重ね合わせて見える。侵略戦争という忌まわしい考えを捨てた、富国日本が美しい国、日本ではないだろうか。
国民が安部首相の歴史認識を気にするのも、そのあたりの考えをどう思っているのか、いまいち明言しないからだろう。

過去の首相の言葉を引用するばかりではなく、、自分の言葉でアジアに対しいや世界に対し、日本のプリンシプルを示して欲しいものだ。