’15.12.15
以前に相撲文化の危機について書いた。モンゴル出身の横綱朝青龍と琴の若戦で、死に体になりながら琴の若のまわしにしがみついて残った横綱に対し、かばい手をして手をついた琴の若に物言いがついた一番を見て、その後の相撲界を憂えて感じたことを書いた。
2016年1月号の文芸春秋に、やはりこの相撲について漫画家やくみつるが「モンゴル力士が相撲観を破壊した」というタイトルで一文を揚げている。私がタイトルをつけるなら「モンゴル力士が相撲文化を破壊した」としたい。

漫画家やくみつるはNHKの相撲解説にもテレビで出たり、民放の相撲番組にでて名勝負の解説をしたり、相撲には一家言持っている人のようだ。
朝青龍が日本の相撲を文化から単なる格闘技に変えたことを思うと、確かに相撲観を変えたといえるが、私はもっと罪が深いと思う。
その後の日本相撲協会のレベルの低さを国民にさらし、相撲人気を国民から失くし、相撲の神聖さを失くしてしまった。相撲文化を壊してしまったのだ。

最近は横綱白鵬の一人勝ちから、照の富士というような若手の元気な力士が出てきて少し相撲人気も回復してきたように見える。照の富士もモンゴル人だ。
壊れた相撲文化はモンゴル力士に元に戻せといっても、所詮日本の伝統的な相撲文化を知らない力士に期待しても所詮無理な話だ。その意味でも、やくみつるが最後に書いているように、日本人の横綱の誕生が待たれる。日本の相撲文化が復活して、やくみつるが言うように世界に打って出て「ワールド相撲クラッシック」をやったらいい。

今の白鵬の所作をテレビ見て一番情けないのは、最後の仕切りの塩を取りに行くはいずるような動き、、塩を取って館内のどこを見ているのか知らないが唇を膨らませても見得を切るようなしぐさ、そして一番情けないのは、勝って手に余るほどの賞金ののし袋の束をわし掴みにして、誇らしげに持ち上げる仕草だ。横綱としての貫禄も気高さもない。
負けた力士への思いやりや、勝ったことへの謙虚さもかんじない。そして、他の力士がは白鵬がやるから真似るのだろうが、よかれと同じような仕草をすることだ。それほど、横綱の所作は力士の憧れなのだ。

日本人力士の中には、これぞ相撲取りと感じる力士がいる。が、残念ながら勝てない、期待を裏切る、モンゴル人に負ける。このままでは、今の相撲しか知らない若者が、日本の相撲文化のほんとうの姿を知らないで世代代わりしそうでならない。