’16.1.28
人は生まれてから死ぬまで、何かしら何処かの集団に身を置いている。幼児期は家庭に、学校を卒業するまでは小学生であれ、大学生であれ学校の集団の中で生きている。
社会人になってからは身を置こうとする集団が無数にあることに気づく。企業の中でも官庁の中でも、医療、学会、宗教の中でも、そしてその集団の中がいろいろな専門に分かれてその中のどれかの集団に身を置いてそこで活動しないと食べていけない。たとえそれがホームレスであっても。

何故こんなことを考えるかというと、生まれてから死ぬまで人間は何かを学んでいる。では何のために学ぶかと考えると、身を置いている集団、分野といってもいいが、その集団の中で役に立ちたい、功績を残したい、より良い生活をしたいと思うからだ。
学ぶ、勉強するという目的を私が得意とする独断と偏見でこのように断言しないと、この先私の話が続かないので勘弁いただきたい。

いわゆる現役といわれる年代では、学ぶことの目的が生活の糧に結びつく。就職に有利な学校に入るための勉強、給料がより稼げるための勉強、その分野で科学の発展に寄与するような功績を残すための勉強など下世話に言えば金になる勉強だ。
一方では金にはならないが人としてすばらしい、俗にいう人間性を向上させるような勉強もあるだろう。
そんなことを考えると、人間は何のために勉強するのか、なぜ学ぶのかその目的は簡単にはこたえられない。金になるための勉強をしたことが、あわせて人間性を向上させる勉強にもなるのならそれはすばらしいことだ。
しかし、往々にして金になるための勉強をして功を遂げた人が、人としての人間性に欠けるという場合が往々にしてある、いわゆる天狗になるというやつだ。

リタイヤーした後も勉強する学ぶということをする、これって何のためにするのだろうか。
身近な人を見ていると、リタイヤーした年齢になるとなかなか人間性を変えることは難しいようだ。したがって人間性を磨く勉強はなかなか難しいように思う。
このころの身を置く集団は、家庭か、趣味の世界か、地域の集団くらいが考えられる。自分の世界に閉じこもろうが、地域社会に身を置こうが個人の勝手だ。なまじっか何かを学んでいることを鼻にかけ、周りの人間とは違う、自分を一段高いところに置いている人をみることがあるが、なんともかわいそうに思える。まあ、とやかく言う話でもないが。
地域社会に生きていると、どうしてもまわり近所の人との付き合いがでてくる。せめてこんな時に、人を不愉快にしない人間性を身につける勉強だけはしたいと思う。考えているうちに人それぞれいろんな生き方があることを思うと、書いているうちに最初の思いが何処かに消えてまとまりがなくなってしまったようだ。