’16.3.2
このところ「日本人」とか「日本という国」とか言うタイトルで、日本のことを問い直すような読み物や話を見聞きする。こんな時は極端に経済や社会がうまくいってない時のような気がする

今年はまもなく東日本大震災から5年が経つ。2011年3月11日午後2時46分、生まれてはじめての大震災を経験した。
そんな大震災は日本では初めてではないが、その後の日本人の姿をいろいろな人が語っている。日経の文化面に著名な方の一文が掲載されているか、作家 池澤夏樹氏のコラムを例によって引用しながら考えてみた。その抜粋から。

「古事記」から「平家物語」、「曽根崎心中」、そして現在文学を読んでいくなかで、日本人とは無常の感覚を心に抱え、色恋を好み、武勲を誇るよりも敗者をいたわる人たちであると考えるようになった。
近代以降の日本人は大きく変わったが、今なお私たちの精神の基底にはそうした心性が息づいている。
同時に、日本人は天災と復興を繰り返す長い歴史のなかで「災害ずれ」してしまった人間だとも思う。災厄に見舞われても「仕方がない」と割り切り、必死に思いつめるより花見をしてゆったり暮らしたい。そう考えてきたのだろう。被災地の復興はなかなか進まないのに、五輪で遊ぼうという今のムードにも、そんな心が表れていないか。

あれだけの犠牲を出した先の戦争のあと、日本には民主主義が根づいた。震災からも禍福を入れ替える発想が出てくるかと思ったが、残念ながら今のところ、そうなってない。
お金や経済以外の原理も少しは力を持つかと期待したが、何かが変わったという感じはしない。

震災は人間の良き面と悪しき面をともにあらわにする経験だった。毎年3月11日だけでは足りない。私たちは折々にあの日に立ち返ってものを考えなければならないと思う。

この一文の見出しは「他利に向かう社会 幻想か」とある。熱しやすく冷め易い日本人の心情を言っているようだが、これもまたいいところがある。
日本人の精神の在り方がどのあたりから来たのか、最近ちょっぴりはまっているところだ。