’16.3.12
2011年3月11日、東日本大震災が起きてから5年経つ。5年前のこの日の後を「災後」と呼んでいる。昨日今日の新聞はこの「災後」についていろいろ書いているが、日経の芹川論説委員長のコラムを引用して「災後」の日本を考える。

昭和20年8月15日正午、終戦の玉音放送で戦後がはじまった。5年前の3月11日午後2時46分、東日本大震災後の「災後」はここからはじまった。
「『戦後』が終わり、『災後』が始まる」と復興構想会議の議長代理だった人がいみじくも言い切ったように、大震災は戦後を終わらせ、災後の新たな国づくりのきっかけになるはずだった。
中央集権で、官主導で、もたれ合いの戦後国家。経済のグローバル化やI T化の波に乗り遅れ「失われた20年」におちいった日本。閉塞状況から抜け出すチャンスでもあった。

しかしながら戦後という枠組みはびくともしなかった。なぜ「災後国家」を作り上げることができなかったのか。
第1に危機意識の欠如だ。1923年の関東大震災は帝都直撃で危機は目の前にあった。東日本大震災は東北が中心だ。ほどなく東京から遠い地方の話になった。「風化被害」である。

第2は政官業とも、どん底のの状態だった。政治は民主党政権で統治能力が、からっきしなかった。しかも掲げていたのは脱官僚の旗。
産業界もリーマン・ショック後の不況にあえいでいる最中だった。

第3は福島原子力第一発電所の事故だ。事故の収束は今なお遠い。科学への不信は近代文明そのものへの疑問に発展した。先の見えない社会の不安は、希望の芽さえつんでしまった。
われわれは「災後」のチャンスを逃したのである。

悔やんでばかりいてもはじまらない。5年のときの流れの中で見えてきたものがあるのも事実だ。2つあるように思う。
ひとつは国力の回復が必要であるという考え方だ。経済力、政治力、技術力といったハードパワー。文化、情報発信のソフトパワー。
もうひとつはネットワーク社会で「つなぐ」ことの大切さだ。人がつながる。企業がつながる。それは国内だけでなく海外までおよんで、グローバル社会に対応していく。共助社会によって新たなビジネスチャンスもうまれてくる。
これが日本社会の「災後コンセンサス」といっていい。ここから災後の向こうを切り拓いていくしかない。もはや戦後でもなく、災後でもない社会へ。とにかく若い人たちが明日を信じられる日本にしていくこと。あれから5年。われわれにつきつけられた課題だ。

われわれに突きつけられた課題はわかるが、じゃあどうすればいいのか。明日をどうしよう、これからの希望をどうもったらいいか、そんな毎日にあくせくしている人間にとって、この日本をどうしたら世界に冠たる国にできるのだろうか。
そんなことは余裕のある、それを生業にしている人にまかせているばいい。直接的にしろ間接的にしろ、平々凡々と暮らしている人間に何ができるだろう、と思ってしまう。
与えられた職分を、毎日愚直なまでにこなしていればそれでいいと一方で言う。それで日本の課題が解決するのだろうか。年甲斐もなくそんなことを考えてしまう。