’16.3.21
学部を選択するときに、法学部は考え方が理路整然としていて理系人間にも向いているというような話を聞いたことがある。
法学部を修めた者の仕事として裁判官があるが、裁判の結論にたどり着くまでの思考は理系だが、判決を下す段階では文系というか人間系の思考が必要になる。裁判官として人を裁くことは、私にとっては神の領域のように思える。

最近のニュースに裁判の判決に関する記事が多いと思っていたが、新聞にこんなことが書いてあった。
自民党の閣僚経験者が自嘲気味につぶやく。「家族の形も、選挙制度も、米軍基地移転も、原発再稼動も、国会でなく裁判所が全部決めている」と。具体的な裁判の内容は次のようなものだ。
昨年12月に最高裁が出した女性の再婚や、夫婦別姓制度について政府への提言。もう一つは米軍普天間基地の名護市辺野古への移転に関する和解勧告。そして科学的に安全だと宣言された関西電力高浜原発の運転の、大津地裁による指し止めの仮処分などである。
日本は法治国家だから裁判所の判決に従うのは当然ではあるが、国民の代表たる国会議員が処方箋を出し、これらの利害を調整していくべきではないかという内容の記事だ。

日本は民主主義国家で、「立法」「行政」「司法」の三権が分立している。我々の日常生活もこの権利の元で生活しているのだが、直接この権利を使うことがなければあまり意識することはない。
最初の二つは国会議員に任せているし、司法は裁判官の判断に任せている。しかし、国民の代表が物事の判断をやたら司法にまけせてしまうことが多いというのだ。
いわれてみれば、日常生活でもちょっとしたトラブル、判断をしなければならないことを、他人任せにしていることはないだろうか。当事者同士でやればしこりがのこる、明日からの生活がしにくくなるという心配がある。

最近も、2階建ての人が3階建てのひとに窓から見えないようにしてくれ、さもないと裁判所に提訴するといういざこざがあった。当事者同士でうまく話し合うことができないものか。これから長く隣同士で暮らしていくのに、これでは面白くないだろう。そんな生活の知恵すら最近は乏しくなったのだろうか。