’16.8.9
 憲法で規定する、天皇が「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」であるということはどういうことなのか。分かっているようで、今まで余り考えたことはない。

一般的な認識は、天皇を見ると、歴史・文化・宗教・言語・習俗などを内包した「日本」を感じる。天皇とう具体的存在を見ることで、日本国という抽象的なモノを感じる。これが「天皇は日本国の象徴」ということ。
同様に、天皇を見ることで「日本国民統合」という抽象的な概念を感じる。これが「天皇は日本国民統合の象徴」の意味するところだ、と解説しているのを見たことがある。象徴という言葉の意味を、「天皇の存在」に置き換えたに過ぎないように思う。

平成28年8月8日午後3時、昭和天皇の玉音放送に相当するような天皇のお気持ちを、ビデオメッセージで国民に伝えたといえば大げさだろうか。いろいろな制約があって間接的な表現ではあったが、玉音放送と違い分かりやすいものだった。
生前退位の話はおいておいて、天皇の「象徴」ということに、その立場にあるものとして語ったことは「象徴天皇」の意味を理解する上で大いに勉強になる。新聞の解説もつまみ食いすると、以下のようになる。

天皇陛下自身が「象徴とは何か」を長年考え続けて到達した「象徴のかたち」は、「象徴とは国と国民のために活動するもの」という信念だった。
これは憲法や皇室典範の条文にはなく、法学者や歴史家、政治家などが定義したものではなく、天皇自ら考えた「象徴のかたち」だ。漠として定かでなかった象徴に「かたち」を与えたのは、皇后さまを伴走者に「遠隔に地や島々への旅」もいとわぬ天皇陛下の活動だった。

今回の天皇のお言葉に戻るならば、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」とした日本国憲法第1条によるのであれば、天皇の「象徴のかたち」に親しんだ今の国民の総意が天皇の退位の容認を理解したとき、天皇のお気持ちに沿うのはおかしなことではない。

政治のやることはいつも後手後手だ。安倍首相が今回の天皇のお言葉を「重く受け止め」て動けば、お言葉が憲法の枠を踏み越えたという批判も起きる。今回ばかりは、時間稼ぎは許されない。