’19.1.5
日経のコラム「大機小機」に最近の「官」の権威について書いている。

かつて特捜部が取り扱った贈収賄などの大型事件は、国家的な正義の発露として「検察の権威」として受け止められていた。
東京地検特捜部は、特別背任などの罪で日産自動車のカルロス・ゴーン元会長を追起訴した。本当に有罪かどうかは裁判を待つしかないが、ゴーン元会長の拘留期間の長期化などについて批判的論調も目立つ。
旧日本長期信用銀行の破綻に伴う粉飾決算事件で起訴された故大野木氏は、無罪判決が下った際「検察もベストを尽くしたのではないか」と語り、達観の境地がにじむ言葉を残した。
東京地裁の勾留理由開示で徹底抗戦の構えを見せたゴーン元会長は、大野木氏とは対照的に、激しく執念深く名誉回復を目指すだろう。
メディア報道によるゴーン元会長の「容疑事実」を知るにつけ「ある時期までは英雄だったゴーン元会長の強欲ぶり」に半ば唖然としつつも、「悪い奴をやっつけた」と検察を礼賛するわけでもない、といったあたりが多くの国民の正直な感覚ではなかろうか。
ゴーン元会長の逮捕時に勝ち誇ったように記者会見した同社の西川広人社長兼最高経営責任者(CEO)にも悲観に矢は向く。「株主や従業員に自らの非力を恥じ、謝るべきだった」。こんな指摘は多い。

まあざっとこんな記事だが、「検察の権威」が落ちていることの他に、「人間の謙虚さ」についても教えられるような気がする。
組織に守られて武装する鎧の中では個人の行動の自由はままならないかもしれないが、心まで自由にならないとは思えない。人の心は、究極の場面で見えてくるのかなと思ってしまう。