’19.3.2
同じ思いのことが、これまた日経のコラムにあったので例によってぱくって揚げます。

かつて我が国には「高級官僚」なるものがいた。今でいう国家公務員総合職試験の合格者である。「主として政策の企画立案等の高度の知識、技術または経験を必要とする業務に従事する役人」として国の隅々までを見渡し、明治以降の我が国の繁栄の原動力になった。政治家にも、彼らに広い裁量権を与えつつ最後の責任を飲み込むだけの器を備える者たちがいた。
高級官僚は、その専門知識の高さのみならず品位と矜持が求められ、社会的尊敬を集めていた。
それがどうしたことか、今や連日のテレビに映し出されるのは、幹部公務員に対する詰問、引責辞任、厳重注意など枚挙にいとまがない。いったいいつからこうなってしまったのだろうか。

原因は、官邸主導の行き過ぎによる官僚の細かい管理ではないのか。官僚らは、自分たちの裁量権の範囲だと思っていた事柄でも、後から官邸から批判されるのを恐れるようになった。あらかじめ官邸の意向を探ることに腐心する忖度文化を作り上げ「器の小さな役人」に成り下がった。
一方で、官邸との関係が近い官僚は「官邸が、官邸が」を連発して権力をふるい、「なんでもカンテイ団」と揶揄される。

山本五十六連合艦隊司令長官は「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承知し、任せてやらねば、人は育たず」との言葉を残している。こうしたリーダの言葉は組織の文化をつくり、その文化が組織を動かす。本質的な問題は、政府の「組織文化」の弱体化である。ここまでが引用だ。

官僚の言いなりの政府、官僚主導、官邸主導、閣僚主導、これらいいの悪いのいろいろ言われてきた。万年野党が間違って政権を取った時に、官僚主導から官邸主導にと意気込んで、政策を無茶苦茶にした時から酷くなったように思う。
最近の各種委員会をみていると、野党の議員がやたら閣僚に細かいことを質問して、答えられなかったり後ろの役人に教えてもらったりすると、鬼の首を取ったようにたけり狂う。政府の方針に沿った官僚から上がってくる政策を、方向さえ間違ってなければやらせればいい。
国の力、政治の力は野党の良しあしで決まってくる。そんな国会運営が今はない。政治家、議員の裁量のなさが、この国をだめにすると思う。