’19.7.24
肺の末期がん患者を看取るまでの一か月半、緩和ケアーセンターに入院した患者に寄り添ってきた。その間、肺がん、末期がん、死、生き方、緩和ケアー、などについて読んだり考えたりした。特に緩和ケアーについて、考えさせられることが多かった。

「死期の予測」のテーマでは、新聞のコラムを転載してアドバンス・ケア・プランニング(ACP)について揚げた。ACPを要約すると
患者本人と家族が医者や介護支援提供者などと一緒に、現在の病気だけでなく、意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ終末期を含めた今後の医療や介護について話し合うことや、意思決定ができなくなった時に備えて、本人に代わって意思決定をする人を決めておくプロセスをいう。

がんに関しては、「がん対策基本法」なるものが施行された。その基本理念は
・がんの克服を目指し、がんに関する専門的、学際的または総合的な研究を推進するとともに、研究などの成果を普及・活用し、発展させること
・がん患者がその居住する地域に関わらず、科学的知見にもどづく適切ながん医療を受けることができるようにすること
・がん患者が置かれている状況に応じ、本人の意向を十分尊重して治療方法などが選択されるようがん医療を提供する体制を整備すること

「がん対策基本法」の上二つは、直接患者や家族の見えないところで展開されている。最後の一項は、直接患者や家族の意向を踏まえての医療行為なので、患者や家族に医者から直接の問いかけがある。
これは通常の診療行為の中、医者とのコミュニケーションの結果として出てくる結論で、これから書こうとする緩和ケアーのスタートとなる理念だ。

緩和ケアーを始めるとき、確認しておかねばならないことは、患者本人が「死」を意識しているか否かだ。家族はほぼ「死」を意識しているが、本人の意識を確認することは甚だ難しい。
本人自らそのことを口にしてくれれば、その方向で緩和ケアー治療が始まるが、そうでない場合は家族がそのことを確認することは心情的にできない。
医師が事務的に確認することが、一番いい方法かもしれない。これがACPというのであれば、その行為は理解できる。

緩和ケアーとは、どんな医療行為なのか。ホスピスとどう違うのか。
病院での緩和ケアーは、団塊の世代がその時を迎えると、需要と供給が壊れるので、家庭ホスピスを積極的にやるべきだと言う本も出ている。いろいろな意見があるが、実際の現場では家庭での看取りは、悩むことが多い。

痛みを感じない、苦しまないための肉体的緩和治療は充実している。素人目に見れば、モルヒネを適当に処置していればいい。肉体的には、それで緩和の目的は達成できる。しかし精神的な緩和ケアーはできているだろうか。ホスピスとどう違うのか。
精神的緩和ケアーは、患者本人に寄り添っている者としては、何をすれば緩和ケアーになるのか最後まで分からなかった。
非日常の環境で、日常的な環境を作ってやるのがいいのか。日頃やったり、見たり、聞いたりしたことがないことを、慰めとしてすることが緩和ケアーになるのだろうか。

病院で患者と寄り添ってきた一か月半の間に、緩和治療の医師がしてくれたことは、予後の宣告と、肺がんだったので胸に聴診器を当て、苦しみや痛みの度合いを見てモルヒネの量をコントロールするだけだったように思う。
しかし、これは病院で緩和ケアー治療を受けたからできたことで、これを家庭でやるとなると今の在宅診療、在宅看護の体制ではとてもできることではないように思う。

実際病院に入院する前まで、患者も家族も家庭での看取りを考えてやってきた。が、その時が近づいてきたとき、嫌がっていた患者本人が入院したいと希望した。
家庭では到底耐え切れないと本人が思ったとすれば、誠に申し訳なく後悔がのこる。