’19.8.22
家内が死んでから、「死」について書かれたことが目につく。
Wedgeという雑誌の9月号に、「看取りクライシス」という特集が組まれていた。気になって読んでる中で、山折哲雄氏の「死はいつからタブーになったのか?」というインタビュー記事が載っていた。
読み進むうちに、氏の言う「死に方」を家内は実践したのではないかという気がしてきた。

昨年10月末、毎年受診する健康診断で左肺に影があるので、要精密検査だと言われた。そう言われたことを私に話してくれたが、あまり深刻な様子は伺われなかった。
そんな中、家内はどうしても行きたいと言う息子のいる金沢へ、車いすで私と二泊三日の旅をした。息子と一緒に食事もしたし、兼六園をはじめとした街中の見学も楽しんだ。

帰ってきて12月中旬精密検査をうけた。CTの画像から確実に腫瘍があって肺がんの疑いがあるが、「がん」とは断定できないので2か月間様子を見ると言われた。本人はこの時すでに、自然に任せると決心していたかどうか定かではないが、様子を見ると言われて少し安心したように思う。

そして2か月後、腫瘍は大きくなっていて胸水も溜まっている。肺がんの疑いがあり、大きな病院で診断してもらう必要があると言われた。
このことを医者から告げられた時、本人の口から、治療はしなくて自然に任せるとはっきり意思表示をした。この2ヶ月の間、いろいろと考えての本人の決断だったんだろうと思う。
家内は医者の前でそのように言ったものの、私としてはさらに詳細を知りたくて単独で医者の話を聞きに行った。

2ヶ月の間様子を見ましょうと言われて、その結果が肺がんの疑いで、結構進行している状況が納得できなかった。そのことは4か月後、別の病院の医者に確認したが、何とも言えないとのことだったが。
医者から言われたことは、大学病院のような大きな病院で診断してもらうこと、今の状態はステージは4で余命1年、これからのことは本人ともよく相談して決めてくれということだった。
家内にもそのことを話して、がんセンターで診断してもらうことに納得した。それが3月末のことだった。呼吸は結構苦しくなっていた。

胸水を抜くことは急を要すると言うことで、診察即一週間の入院となった。退院時の肺のレントゲン写真を診ながら、医者から今後のことを聞かれ、本人の口から治療はしない、延命措置もしないことを告げ、その旨を書面にして署名した。
当然その時はぼんやりにしろ明確にしろ、家内は「死」ということを覚悟していたに違いない。それがどんな経過をたどって何時来るのか、医者に聞いても「ひとそれぞれ」と言うだけで明確には言えないと言う。
退院してからは、家で看取られることを期待して、体の許す範囲の日常生活を過ごした。ただ気持ちの上では、いろいろな情報を集めては「がんの疑い」であって、良性の腫瘍であって欲しいと、これからも生きる望みは捨てないでいたように思う。

訪問看護、訪問診療を受けたが、病気に対する気持ちは揺れ動いているのが分かる。残念ながらその時も「死」についての会話はない。「死」はタブーだった。
家内は家庭での看取りを、どの程度意識していたか分からない。ただ、この状態で入院することは、生きる望みのない死しかないという意識はあったようだ。
それがどうして、自ら入院したいと言い出したのかは分からない。訪問診療では我慢できないほど、痛みや苦しみがあったのかもしれない。

入院は緩和ケアのための入院だ。モルヒネの点滴をして、苦しみや痛みからは解放されたと思う。「安楽死」を意識したかどうかはわからない。
緩和ケアー病棟には42日間いた。最後は安楽死だった。残念ながら入院中、会話らしい会話はほとんどしていない。意識のある間は、医者や看護師さんには驚くほど優しく接していた。人間の尊厳、大げさに言えば尊厳死を意識していたのかもしれない。
入院中に言った言葉で記憶に強く残っているのは、「まだ生きているよ」、「家に帰りたいよ」、そして「死ぬの」と言って涙したことだ。

私は毎日病院に行っては、四六時中傍にいて本を読んだり新聞を読んだりして時間を過ごす。家内はベットに横になって、寝ては時々眼を覚まし見ている。
咳き込んでは苦しそうにしていると、私は看護師を呼んでモルヒネを一時的に多くしてもらう。スマホで心が安らぐような音楽を掛けてやる。聞いているかどうかわからないが。
あるとき医者に、緩和ケアでこうして私が傍にいて、何をしてやれば家内は喜ぶだろうか。私は何のために、こうして何時も傍にいるのだろうか。家内の死をまっているような、何とも哀しい気持ちになることを率直に伝えた。
医者からは、何時も傍にいることで家内は安心する、それでいいのではと言われた。

時々ボランティアの方が歌や音楽を演奏してくれる。ベットごとそれを聞きに行った。家内は哀しそうな顔をしながら、間違いなく聞いている。生きることと、死ぬことを意識しているのかと思う。
またある時は、ボランティアの方に話し相手をしてもらった。家内の今までの生活環境を知らない中、いきなりの会話はやはり難しい。
ある時は、ボランティアの方の出してくれる日本茶とお菓子を、おいしそうに飲んだり食べたりする。こんなことが、緩和ケアの毎日を送る家内には慰めになったのかどうか分からない。

死を迎える人に、何か役に立つことはないか。宗教的なことを話して、死生観を話して聞かせることは、役に立つのではと思ったことがある。ホスピスでは可能かもしれないが、緩和ケア病棟では無理だろう。
意識してか、生理的にか分からないが、だんだん食事をしなくなった。3食食べるのは、お茶と少しのムースだけになった。死に至る30日間は、家内が食べるのはほとんどそんな食事だった。
あるとき医者に質問した、彼女が死ぬのは肺がんで息ができなくなることでしょうかと。そうだという。食事が摂れないことについては、食べれなければ食べないでいいとも言われた。
「断食往生死」なるものがあるらしい。家内は確かに食べれないが、食事を摂らないで餓死するのではないかと思ったことがある。
家内が、肺がんは悪いなりに落ち着いているのなら、食事をしないことで「死」を選んでいるのではないかと思ったりもした。しかし最後まで、見た目の顔は元気な時と変化はなかった。

最後はモルヒネのおかげで、安楽死だった。痛みでもだえ苦しむこともなく。
「死」を意識しての42日間のベットでの生活は、どんな気持ちで過ごしたのだろうか。私は傍で「死」を迎える毎日を送る家内に、何をしてやれたのだろうか。これから迎える自分の死を前に、考えさせられることが多い。